第10回全日本剣道選手権大会(1962)、戸田忠男が優勝。上段ブームの幕が開く

全日本選手権物語
写真右から、優勝・戸田忠男、2位・片山峯男、3位・佐藤博信、惠土孝吉

 昭和37年(1962)12月2日に開かれた第10回全日本剣道選手権大会を制したのは、当時23歳で五段の上段剣士・戸田忠男(滋賀)だった。

 戸田は前年の昭和36年に慶應義塾大学を卒業して東洋レーヨン(現東レ)に入社、滋賀事業所に勤務していた。その36年に第4回全日本実業団剣道大会の優勝メンバーに名を連ねるとともに、早くも全日本選手権初出場を果たしている。1回戦で大久保和政(埼玉)、2回戦で浦本徹誠(大阪)を破った。浦本はこの年全国警察剣道大会で2位となった大阪府警の大将である。3回戦では二刀の水野忠(宮城)を破り準々決勝に駒を進め、小沼宏至(東京)に敗れている。小沼はこの年の全国警察大会で優勝した警視庁の三将を務めていた。

 前年に続いての出場となった昭和37年、戸田の全試合スコアは以下の通りである。

1回戦 戸田 メメ─ 山城武(沖縄)
2回戦 戸田 メド─コ 市川彦太郎(静岡)
3回戦 戸田 メメ─ 中村毅(東京)
4回戦 戸田 コメ─ 中里誠(茨城)
準決勝 戸田 コド─ 佐藤博信(東京)
決 勝 戸田 コメ─ 片山峯男(熊本)

 すべての試合で二本を奪い、失ったのは市川(のち範士九段)戦の一本のみだった。

 決勝で戦った片山峯男は身長180㎝の長身、対する戸田は169㎝だった。

「決勝は戸田が上段をとると、片山も上段をとって相上段となったが、戸田が片山の左小手を打ち込み一本をとる。二本目にはいると片山は中段にかえしたが、止ったところを戸田すかさずメンを打ち見事に決った」(「朝日新聞」昭和37年12月3日付)。

中学にはまだ剣道部がなかった

 戸田は昭和14年に東京で生まれ幼少時に大阪に移った。剣道を始めたのは戦後の昭和25年のことだ。小学校6年生になる頃で、当時まだ剣道は正式に復活していなかったが、南海電鉄の社屋2階にあった道場で、松本敏夫ら愛好者が稽古していたところへ入門した。中学校入学当時はまだ剣道部がなく野球部に入部。3年に進んだ頃に「撓(しない)競技部」ができ、担当の先生が剣道の経験者を探して回った。戸田は誘いを受けて迷ったが撓競技部に移った。

 今宮高校では武道専門学校を卒業した岡本亮三の指導を受け、試合になると撓競技と剣道に分かれて出場した。入学した昭和29年にちょうどインターハイが始まり、2年、3年と連続でインターハイ剣道部門に出場(当時は団体戦のみ)、近畿大会では団体、個人ともに優勝を果たしている。

 慶応義塾大学に進み、1年の後半から見様見真似で上段をとるようになった。高校の頃に大阪で見た池田勇治の上段に憧れてのことだった。まだ早いとたしなめる上級生もいたが、やがて中野八十二師範の知るところとなり、解禁になると同時に厳しく稽古をつけられ、上段を磨いた。主将を務め、全日本学生優勝大会(団体)では3年のときに2位、4年のときに3位になっている。

 戸田は初優勝の2年後の昭和39年、第12回全日本選手権大会で2度目の優勝を果たし、中村太郎に続く2人目の複数回優勝者となる。その間の第11回大会でも矢野太郎(兵庫)に決勝で敗れたものの2位となっており、絶頂期を迎えている。2回目の優勝の直後に東京へ転勤となり、東京都予選では2年連続で敗退したが、昭和43年、第16回大会では東京から出場をかなえた。本大会でも4度目の決勝進出を果たし山崎正平(新潟)に敗れたものの2位となっている。

 上段の剣士としては第5回大会(昭和32年)の森田信尊(長崎)、前年の第9回大会の伊保清次(東京)に次いで3人目の優勝者だったが、戸田の後、昭和41年に千葉仁(東京)が初優勝、昭和46年に川添哲夫(当時は東京)が初優勝、戸田、川添が2回、千葉が3回優勝を果たし、剣道界に上段ブームが到来した。戦後派としては最初の上段での優勝者となった戸田は、その先駆けであり代表選手である。

 私は「剣道日本」の取材で平成3年(1991)以降、何度も戸田に話を聞く機会があった。初めて取材したとき、丁寧に質問に答えてくれたものの「あまり昔の話はしたくない」と言っていたのが印象に残っている。

「試合に出る以上勝つことは大事ですが、それはたまたま同じ時間に同じ場所に居合わせた者同士の試合であって、結果は絶対的なものではありません。全日本選手権で優勝したのも、自分では最大限の努力はしたつもりですが、そういう意味では運もあるし、若さで勢いに乗ったという部分もある。その頃はスポーツ的な見方しかできていなかったと思います。過去をいつも思っているよりは、終生少しずつでも前進し続けるために考えることがいっぱいあります」(「剣道日本」1991年5月号)

 上段については次のように話していた。

「心で攻める、気で攻める、そして捨てて打つという剣道をするために上段はもってこいのスタイルだと思っています」
「上段をとるということは、上段を通じて剣道を探求することです」

 普段の稽古は中段で行うことも多かったという。

 平成2年から学生大会で試験的に二刀が解禁されると、戸田はOBとしてその試合審判規則を検討するために、自分がやってみようと考えた。六段、七段審査は上段で合格したが、八段は二刀で合格。二刀の第一人者というべき存在となった。二刀を始めて間もない頃のインタビューでは「実に面白い研究領域ですね」と話している(「剣道日本」1994年1月号)。

 あまり剣道家らしくない剣道家という印象が私には残っている。戸田にとって剣道は修行する道、というより「研究の対象」だったのだと思う。自身は伝統的な古い剣道が好きで、それを追求したいといつも語っていたが、柔軟な考え方の持ち主であった。

「一般の人に『今のは気が動いた』とか『剣先の攻めに動揺した』とかいっても解らない。『あれはなぜ一本でないのか』という質問に『あそこは鎧兜つけてるから』というような説明をしなければならない。普通の人には解らない領域でやっているんです。そういうふうに難解なものになって、世間から忘れられていくようではしかたがないと思います。やる人、観る人が増えることを発展とするならば、そんな理屈なしに楽しめる剣道があってもいいのではないか」(同上)

 まったく同感である。さらに、次のようにも話していた。

「間口を広げる啓蒙の意味では、何か目標や楽しみがないと、何千人も修業するわけがないですから、オリンピック参加の道も方便としては考える余地があるのではないでしょうか。無理だ、不必要だという高段者が多いのですが」(同上)

戸田は50歳で東レを早期退職し、その後は自営業を営んでいた。ビジネスの世界を泳いできた人だったからだろう。一般社会に通じる感覚を持った人だったと思う。

 そして、戸田は師に教わったことをそのまま伝えるのではなく、自分で考え実践して習得したことを自分の言葉で話す人だった。だから多くの剣道高段者とはひと味違う感触がいつも残ったのだと思う。そのあたりは機会を改めて書きたい。平成28年12月26日逝去。

全日本選手権優勝後、慶應義塾大学時代の恩師・中野八十二(右)と

若手警察官が各地から名乗りを上げる

 決勝で戸田に敗れた片山峯男は大正7年生まれの44歳。東京高等師範学校出身である。「東京高師の黄金時代に活躍した選手で、全日本には初出場だがなかなかの難剣」と「讀賣新聞」(12月3日付)は書いている。前年に41歳で優勝した伊保清次(大正9年生まれ)よりも先輩だったが、この年が初出場、しかも生涯唯一の出場だった。全日本選手権の舞台にただ一度だけ彗星のように現れ輝いた剣士である。それまでも予選に出場していたのかどうかは分からない。東京高等師範学校附属中学校の嘱託教師を短い間務めたが、軍役を経て、戦後は昭和25年より故郷の熊本電波高等学校教官を務めていた。その後、国立熊本電波工業高等専門学校教授となっている。

 準決勝で戸田が対戦した31歳の佐藤博信(東京)は、この年の全国警察剣道大会で優勝した警視庁の三将を務めていた。佐藤は計8回の出場を果たしているが、この年が2回目の出場。そしてこの年から出場した大会で4連続3位という珍しい記録を残している(連続出場ではない)。後に警視庁主席師範を務め、八段戦である明治村剣道大会では4回優勝という実績を残した佐藤だが、全日本選手権では決勝を前に4回涙を呑んだ。

 佐藤は昭和6年生まれで終戦時は14歳だったが、父が台湾在住の警察官で剣道指導者でもあったため、終戦までに10年近く剣道を経験していたという。戦中戦後の空白期があったため、昭和一桁生まれの剣士は総数としても少ないのではないかと思われる。佐藤はやや特異な例である。

 この年は初出場の選手が32名おり過半数を占めた。20代は13名。2年前の第8回大会の2名と比べて大幅に増えている。「讀賣新聞」(12月3日付)は次のように評している。

「全体的に動きが速くなったため若い選手の活躍が目立ち、ベスト8(準々決勝)の3人が20歳代、3人が30歳代、残り2人が40歳代だった。(中略)全日本は第十回を境に若い選手の進出が一層盛んになり、これからの活躍を物語っていた。なお戸田の優勝は器用さもさることながら、実業団にはいって以来毎日猛練習を続けたたまものである」

 2年前の桑原哲明の優勝をきっかけとして、戦後派の若い選手の出場が増えていた。もう一人の3位となった惠土孝吉(愛知)もその一人で、戸田より1学年下。中京大学時代に全日本学生選手権で2度優勝を果たして中京大学の教員となり1年目、前年に初出場で準決勝進出を果たしており、2年連続の3位入賞だった。

 惠土を除く若手はほとんどが高卒で各県警察に入った選手である。戸田が対戦した中で、警視庁の中村毅は21歳で戸田よりも若い。茨城県警の中里誠も25歳だった。戦後派の第一世代といえる昭和11年生まれの西山泰弘(東京・警視庁)も26歳で初出場(1回戦敗退)、千葉県警の川畑冨安は昭和15年生まれの22歳(1回戦で谷口安則に敗退)、兵庫県警の安部尚志は昭和16年生まれの21歳で、国東安岐高校時代にインターハイ団体優勝を果たしている選手。2回戦の若手同士の対戦で中村毅に敗れた。埼玉県警の清水祐介は昭和18年1月生まれで19歳ということになる。予想記事にも「高校を卒業したばかり」とある(「讀賣新聞」12月2日付)。当時は20歳以上という年齢制限がなかったと思われるが、他の年にも19歳で出場している例がある。五段~七段の選手がほとんどの中で、中村、安倍、清水の3名が四段だった。

 ここまで10回開かれた全日本選手権大会で、警察官の優勝者は中村太郎1人(2回)だけだったが、警察官が主役の大会になる兆候がはっきりと見え始めていた。

 「朝日新聞」では大島宏太郎が予想記事を書いているが、前年優勝の伊保清次(東京・42歳)を筆頭にあげ、「これを阻む者があるとすれば惠土あたりか」としている。そのほか4ブロックごとの有力選手として戸田、中村、山形三郎(岡山)、川畑、佐藤、川上志(大阪・26歳)、谷口安則(福岡・41歳)、西山らをあげている。学生時代は2度全日本学生選手権を制し、後にPL学園黄金時代を築く川上は昭和30年、31年に島根代表として出場しており、大阪代表としてはこの大会が唯一の出場だった。山形、川上はともに3回戦で敗退。最有力とされた前年覇者の伊保は2回戦で葛城康夫(大分)に屈している。

 2年前に21歳で優勝を果たした桑原哲明と同学年の戸田が優勝。しかしまだ数年は戦前戦中派とのせめぎ合いが続く。

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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