「人間わざではない」風のような剣を遣った鈴木守治さん

昭和の剣道
1958年、全日本選手権大会で優勝

 古い話だが、『剣道日本』の平成3年4月号から1年間、「新時代の覇者たち」という連載を担当した。昭和27年(1952)に戦後剣道が復活してから昭和40年代頃までに全日本選手権やインターハイなどで活躍した選手を訪ね、当時の話を聞いて紹介する連載だった。

 その時代の剣士たちに惹かれた最も大きな理由は、たとえば昭和31年(1956)の第3回東西対抗剣道大会では宮城球場に2万人余の観客が集まったなど、この時期の剣道が世の中からとても注目されていたことをそれまでの取材で知ったからである。今振り返ると、剣道が復活した昭和27年から昭和が終わる64年(1989)頃までは剣道人口が右肩上がりで増えていった。私が『剣道日本』編集部に入った昭和60年(1985)の段階では、夏の武道館での少年錬成大会はすごい人数だと驚いたが、東西対抗大会の観客はせいぜい数千人だった(1000人以下だったこともあると思う)。全日本選手権大会などの他のマスコミの扱いを見ても、剣道が世の中から注目されているとは思えなかった。

 2万人以上もの観客を集めた昭和30年代から40年代は、全然違ったのではないかと、昭和60年代に感じたのである。今でもそう思う。

 それ以前に、当時は剣道雑誌もなく(『剣道時代』が昭和49年、『剣道日本』が51年創刊)詳しい記録が残っていないので、過去の優勝者の名前を見て、この選手はどんな選手だったのか知りたい、という単純な動機もあった。

 そのシリーズの中で取り上げた1人が鈴木守治さんである。昭和33年(1958)の第6回全日本選手権優勝者だ。鈴木さんを取材したきっかけは、2人の方から鈴木さんが「天才」であるという評価を聞いたからである。1人は当時金沢大学教授だった惠土孝吉氏、もう1人は鈴木さんの東邦商業学校時代の指導者であった近藤利雄範士八段である。

 惠土教授はご存知の通り、中京大学在学中から全日本選手権に出場し、2位1回、3位3回などの戦績を残し、金沢大学の監督としても目覚ましい実績を残した。当時さまざまな取材でお世話になり、「新時代の覇者たち」でも惠土教授自身を取り上げた。その惠土教授が鈴木さんをこんなふうに評していた。

「鈴木先生は天才的な剣風で構えはひょうひょうとしているが静から動、動から静へとパッと切り替わる。全日本の予選で鈴木先生と何回かやってるけど僕は勝てると思ったことはないですね。(ともに全日本選手権優勝2回の)中村太郎さんや戸田(忠男)さんもすごかったけど、その上を行くのが鈴木先生だと思う」

 近藤範士は東邦商業のほか、戦後名古屋地区の剣道復活に尽力し、中京大学剣道部長をつとめその基礎を築いくとともに、ナオリ剣道教室などで少年剣道の発展にも寄与した。その近藤範士は鈴木さんをこんなふうに評していた。

「まさに間の名人でした。音無しの構えのように剣先が触れない遠間でひょうひょうと構え、相手が打ってくるとさっと返し技で仕留める。(中略)風のような剣道、とでもいうか、何か人間わざでないような気がしたものです」

 当時80歳を超えていて、戦前からあまたの剣士を見てきた近藤範士が「人間わざではない」とまで言う鈴木さんに、どうしても会ってみたくなった。

 鈴木さんについて改めて紹介すると、大正10年(1921)愛知県豊川市生まれ。国府尋常小学校3年のときに剣道を始め、当時行なわれていた橿原神宮や早稲田実業での全国少年剣道大会で団体優勝、近藤範士に誘われ東邦商業に進むと、大日本武徳会主催の中等学校大会で優勝するなど数え切れないほどのタイトルを手にする。戦後は一時自分で事業を起こしたが、のちに名古屋昭和税務署に勤務。第1回全日本選手権大会から第3回大会を除いて第9回大会まで出場を続けた。第1回大会では東邦商業の1年先輩である榊原正さんが優勝、鈴木さんは3位に入賞している。昭和33年(1958)の第6回大会で優勝したときは37歳になっていた。翌年、地元愛知県犬山市で行なわれた全日本東西対抗大会では、11人抜きという最高記録を作る。当時は東西対抗大会で抜き勝負が採用されることがあり、それまでの記録は第3回大会で榊原正さんが作った10人抜きだった。

1959年、全日本東西対抗大会で11人抜きの記録を作った

 お会いした当時の鈴木さんは70歳前後で、寺西商事株式会社専務取締役という肩書きだった。

 全日本選手権優勝から5年後、会社を任されることになり「そこからは剣道を捨てた」とご本人は言った。やめたわけではないが、完全に趣味として続けることに決めたのである。

 会社を任されたといっても社員は自分1人だけからのスタートだったという。3年間は朝8時半に会社の鍵を開け、夜中の1時2時まで仕事をした。たまらず月曜から金曜まで会社で寝泊まりすることにしたそうだ。

「今日の私があるのはまったく剣道のおかげです。剣道をしていなければ、体力も辛抱もとても続かなかった」

 と鈴木さんは言った。社業に専念してからも(空白の時期もあったかもしれないが)週に1回程度は自分の稽古を続け、取材当時も少年剣道の指導に携わっていた。会社は順調で、剣道のおかげで成功することができたのだからせめてもの恩返しをと、「鈴木守治旗争奪少年剣道大会」を創設しスポンサーとなっていた。

 近藤範士は「彼のためには良かったのかもしれないが、個人的にはあれほどの才能を持った彼が剣道指導者の道を歩まなかったことは残念だ」とも話していた。しかし私は、鈴木さんの剣道との関わりはとてもカッコいいと思ったし、これこそが「人間形成の道」として剣道を活かした例なのではないかと感じた。

 天才だからこそ、剣道指導者としての将来と実業家としての将来の両方がよく見えて、よりよい自分の生きる道を選択したのではなかったのだろうか。そんな問いかけもしたかったが、当時の私にはそこまで思いは至らなかった。

 この取材から1年と少し経って、私は『剣道日本』の編集長に就任する。5年か7年か、それこそ1か月のうち10日から2週間、つまり月の半分は会社に泊まり込んで仕事をした。そこまでできたのは、鈴木さんの生き方に触れたからかもしれないと今改めて思う。私の父は鈴木さんより1歳だけ年下である。姓が同じということもあり、鈴木さんの生き方は父の教えのようでもあった。

 

タイトルとURLをコピーしました