大分・国東半島の東端に強豪校があった。国東安岐高校、1960年のパレード

こんな剣士がいた

「こんな剣士がいた」というコーナーだが、この記事は「こんな学校があった」という話である。

 1960年(昭和35)、インターハイ男子団体で優勝を果たしたのは大分県の国東安岐高校だった。1948年(昭和23)に開校し、当時の正式名称は大分県立国東高等学校安岐分校。「新時代の覇者たち」という連載で、同校について取材したのは1991年(平成3)のことだった。

 戦後から昭和50年ぐらいまで(つまり『剣道日本』創刊以前)に各カテゴリーで活躍した選手、団体を掘り起こす連載だったが、1回前の記事で池田健二さん(玉竜旗大会3連覇、インターハイ個人、全日本学生選手権優勝)を取材した際に、池田さんがインターハイで個人優勝した1960年に団体戦で敗れた相手である国東安岐が気になった。その直前の玉竜旗でも決勝で対戦して池田さんの福岡商業高校が勝っている。まさに好敵手であり、国東安岐にとってリベンジだった。そして当時の新聞記事を見ると国東安岐は一風変わった「跳躍戦法」で戦う、と書かれていた。

 インタビュー取材は大分市内に住んでいた開校当初からの監督である若松武彦範士と、県南部の三重町(現・豊後大野市)に住んでいた優勝時の大将である成田(旧姓・佐藤)正人さんにお願いしてすませ、安岐高校の現在を取材したり安岐町で人に会う予定もなかったのだが、やはり町の雰囲気を知りたかったし、何よりも成田さんに見せていただいた当時の写真に衝撃を受けて、確か予定を1日延ばして安岐町に足を運んだ。

 優勝した後、剣道部員が安岐町の商店街をパレードする冒頭の写真である。とてもいい写真だ。この写真が撮られた1960年は私が生まれた年だが、私が子どもの頃に全国どこにでもあったような商店街をパレードし、町の人々の祝福を受けている。まるで甲子園で優勝した球児たちを迎えるようだ。剣道関係者でも学校関係者でもない一般の人たちからも祝福されている。剣道が社会の中でこれほど注目を浴びていた、ということに驚いた。

 現在は国東市となっている安岐町は、大分空港がある町だった(1971年開港)。取材当時は高速道路もなく確か杵築市からバスで向かったと思う。優勝した1960年当時は杵築駅から大分交通国東線という鉄道が走っており、安岐駅に凱旋した選手たちの写真もあるが、翌年の大水害で複数の鉄橋が流出し、復活しないまま1966年に全線廃止となっている。取材当時には廃線跡が分かる区間もあり、バスを降りた安岐駅の跡地も駅舎があった頃の面影があった。

 かつての安岐駅は空港に至る海沿いの幹線道路沿いにあり、その道から西に向かって山側に2キロほど行ったところに安岐高校があった。その間が写真に写っていた商店街だった。安岐高校まで歩いて、戻った。写真では未舗装の道路は舗装されていて、両側には住宅が建ち並び小さな商店がいくつか残ってはいたが、店を閉めて住宅にしたと思われる建物も多かった。空き地も目につき人影も少なかった(取材時に写真を撮らなかったのは痛恨である)。

1960年、優勝を果たして安岐駅に凱旋したメンバー。先頭左の白いシャツが若松監督

1991年当時の安岐町。(記憶が正しければ)右の住宅が立ち並ぶさらに右が冒頭の写真の商店街で、写真奥の方に安岐高校があった

 1960年当時国東安岐高校は定時制だったが、夜に授業があるのではなく、普通に朝から授業を行い農繁期には休みになるというシステムだった。生徒は4年で卒業する。優勝メンバーの家はほとんどが農家で、安岐町は畳表(豊後表)となる七島イの産地として知られていた。農繁期である七島イの刈り入れ時期が7月から8月で、玉竜旗やインターハイのシーズンと重なっていたが、若松監督は生徒の家を回って説得し、ときには試合に出ない1年生を手伝いに行かせたと話していた。徐々に親も子どもの剣道を応援するようになり、稽古時間も確保できるようになったという。

 1955年(昭和30)、その年に赴任した若松教諭が国士舘専門学校の卒業生で剣道六段であることを知った分校主任の主導で、剣道部が創部された。翌年には早くも県代表として九州大会に出場、その翌年の1957年(昭和32)にインターハイ初出場を果たし、いきなり全国ベスト8に入る。次の年がベスト4、さらに翌年のベスト8を経て1960年に優勝と、初優勝までの4年間は鮮やかな躍進ぶりである。玉竜旗大会は1958年(昭和33)に初めてベスト4、翌年から2年連続で2位だった。その間の九州大会では優勝はないものの4年連続でベスト4に入っている。

「跳躍戦法」については、若松範士がこんなふうに語っていた。

「昭和32年の玉竜旗での福岡商業との試合だったと思いますが、うちの選手の中に一人、構えているときに小きざみに跳躍する者がいたんです。たまたま一人がそうしていただけなのですが、前年まで2連覇していて福岡商業に勝ってしまったものだから、それ以降ずっとそう書かれてしまった。ただ、みんな脚力ががあったこと、バネを活かした遠間からのスピードのある技が武器だったという点はそのとおりです」

 そして選手だった成田さんはこう話していた。

「動きの早い剣道であったということ、遠くから間合を見て機会を探った、ということは確か。しかし、そう特別跳ね回ってということはなかったと思うのです。私たちだけがとくに変わっているという意識はなかった」

 縄跳びなど体力トレーニングも取り入れていたそうだ。要はその後剣道が盛んになって主流になる戦い方やトレーニングを先取りしていただけではないか、と取材して感じた。

1960年インターハイ決勝、国東安岐の佐藤(左)と福岡商業の池田による大将戦

 その後、1962年度から全日制となり、3年後に安岐高校となってからも剣道強豪校であり続け、インターハイベスト4、ベスト8(3回)などの戦績を残し、玉竜旗では1966年(昭和41)に初優勝を果たす。玉竜旗が福岡県外に出たのは1957年の高千穂高校以来、史上2度目のことだった。昭和50年代になると女子が台頭し、1980年(昭和55)、81年はインターハイ団体連覇という快挙を達成している。昭和32年のインターハイ初出場から最後の出場となった55年までに、男子団体の県代表を逃したのは2回だけだった。当然剣道界で活躍するOB、OGも多い。取材時点では、インターハイには5年前ぐらいを最後に出場していなかったが、玉竜旗大会ではその名前を記憶する位には上位に進んでいたと思う。

 2003年、そんな全国屈指の剣道強豪校が閉校となるというニュースを聞いたときは残念に思ったが、意外ではなかった。旧安岐町の人口は1950年(昭和25)前後がピークで1万7千人弱、インターハイ優勝の1960年も1万4千人以上だった。それが私が取材した前年の1990年(平成2)には1万人を割り9915人。その後ほぼ横ばいで合併して国東市となる2005年は9974人と微増していたが、その2年前に閉校となっているから、子どもの数は減っていたのだろう。

 1991年の取材当時は全国の高校剣道部員数がピークを過ぎた頃で(ビークは1984年)、剣道界はまだまだ元気だっだ。だが、地方都市ともいえないない小さな町である安岐町の商店街を歩いて、1960年の写真から強烈に感じた剣道を囲む熱気が、もうそこには戻ることはないだろうと感じていた。そこに元通りのにぎやかな商店街があったとしても、町の人達が剣道日本一をそれほど喜んでくれるとは思えなかった。それから30年経ってその写真を見ると、あのときよりずっと強くそう感じる。

 1991年は地方都市の商店街が寂れ始めたというニュースを耳にするようにはなった頃だろうか。あの日私が歩いた安岐町の商店街は、剣道の将来、つまり30年後の今の姿を、白昼夢のようにして見せてくれていた気がする。今あの商店街はどうなっているのだろう。ショッピングモールやロードサイドの大型店が増え、人口が減少していく中で、地方都市の商店街が寂れていくのは自然の流れで避けられないだろう。剣道も同じ運命なのだろうか。何かあの頃の熱気を取り戻すやり方があるのではないか。1960年の写真を見ながらそんなことを思う。

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