惠土孝吉さん(金沢大学名誉教授)が求めた、色彩豊かな剣道

こんな剣士がいた

(本稿は『剣道日本』2023年7月号に掲載された記事に加筆したものです)

 2023年4月21日、金沢大学名誉教授の惠土孝吉さんが逝去された。全日本選手権2位1回、3位3回など選手として輝かしい実績を残し、指導者として中京大学、金沢大学の学生を全国レベルでの活躍に導き、東京大学も含め多くの剣士を育てた。享年83歳。

 惠土さんは2023年3月末に自らの70年に及ぶ剣道人生を語り尽くした『夢剣士自伝』を上梓した。同書が世に出て約20日後、自分の果たすべき役割は終えたと確信したかのように、帰らぬ人となった。

 私が所属していた『剣道日本』では数多くの記事で惠土さんにご登場いただいてきた。私自身は剣道日本編集部に所属して間もない昭和の終わり頃から離れた後までお付き合いいただき、『夢剣士自伝』の編集と販売を担当させていただいた。

 惠土孝吉は戦後の剣道復興期から令和に至るまで、他の誰とも異なる独自の道を歩んだ不世出の剣道家であったと私は思っている。一剣士の目から見た戦後剣道史ともいえる480ページに及ぶ大著『夢剣士自伝』から、剣道界の常識にとらわれない惠土さん独自の技術、指導方法、剣道観を紹介したい。

惠土孝吉の強さの理由

 なぜ惠土さんがあんなに強くなったのか。その答えが『夢剣士自伝』に書かれているわけではない。中学時代から毎日千本の素振りを欠かさなかったというエピソードが紹介されているが、それが理由ではないだろう。ただ全編を読んでみると、強さの理由として想像できることはある。

 一つは自分の限界を決めなかったことだろう。あるいは限界がなかったのかも知れない。他の人が死ぬほどキツいと感じる練習を、平然とこなしてしまう体力があり、だから、さらにキツい稽古を自分にも後輩や教え子にも課していった。

 もう一つは、「一本を奪う」ことを徹底的に追求したこと。高校時代の恩師前田治雄さんは、惠土さんにとっては強い先生ではなく、「打ちごろ」だったと同書の中で述べている。当時は毎日前田さんと三本勝負をした。しかも、前田さんが鍔でも肘でも触ったら前田さんの勝ちというルールで、惠土さんが打っても確実でなければ「軽い」「もう一本」と徹底的に鍛えられた。この前田流の稽古が、指導者となってからの惠土さんの稽古の骨格となる。

 学生大会や全日本選手権に出場していた当時、試合前の稽古でも準備運動、素振り、切り返しの後、後輩や他の出場選手を相手に三本勝負をして仕上げた。「本番のつもりでやってから試合に臨みたかった」と述べている。監督になってからも、当日練習の仕上げは三本勝負をやらせていた。

 金沢大学の教え子で初めて八段になった安江正紀教士は、同書にこんな手記を寄せている。

「惠土先生からご教示頂いたものの中で、最も感銘を受け人生に大きな影響を与えたのは、その『徹底した合目的的な思考』です。あくまで目標の達成にのみ焦点を当てた合理的な稽古の進め方です。私は自らこの思考を『近道理論』と名付け、剣道修行に留まらず仕事や生活にも取り入れております。(中略)特に大きな成果をもたらしたのは初受審での剣道八段合格でした」

 中京大学監督時代の稽古ぶりは狂気さえ感じさせる凄まじさで、後の科学的思考を取り入れた指導とは別物に感じられるが、「合目的的思考」ということでは一貫していると思う。自らに課した稽古もそうだったに違いない。

宮崎正裕さんについての評価

 平成3年の全日本選手権で、宮崎正裕さんが大会史上初の連覇を果たした。当時、宮崎さんの剣風について批判的な意見が一部にあったことをご記憶の方も多いだろう。『剣道時代』には批判的な記事が掲載された。それに対し『剣道日本』は宮崎擁護派だった。「日本経済新聞」に二誌ある剣道雑誌で意見が分かれているという記事が載った。

 『剣道日本』平成4年2月号では「徹底解剖!宮崎正裕のすべて」という特集を組み、宮崎さんの体力測定のようなことまでしているが、その記事の最後で惠土さんのこんな言葉を紹介した。

「宮崎の剣道を一方的に否定することは、剣道の発展にはマイナスである。宮崎を批判する時間があるのなら、宮崎をいかに倒すかに時間を費やすべきであろう。堂々とした剣風で宮崎に勝つ選手が現われれば賞賛されるだろうし、宮崎もさらに努力する。宮崎のような選手も一つの個性として認められるべきでしょう」

 私のモヤモヤを晴らしてくれた言葉だった。剣道経験者でなかった私には、大会史上初という素晴らしい結果を残した選手を、勝ち方が悪いと批判する行為がまるで理解できなかった。幸いなことに、当時の本誌編集部の先輩方やスタッフも同じ意見だった。もし宮崎さんを批判するような編集部だったら、私はそんなわけの分からない世界に関わるのをやめていたと思う。現在に至るまで剣道に関わり続けることになった原点と言える出来事だった。

『夢剣士自伝』では宮崎さんとの親交についても触れているが、二人は、どうすれば剣道の試合で勝てるかの近道を、常識や教えにとらわれず自分の頭で考え、ストレートに突き詰めたという点が共通しているように思う。まさに「合目的的」だった。

「もう一本」「もう一本」

 中京大学は惠土さんの在学中に全日本学生優勝大会3位入賞を果たしていたが、監督を務めた時期の最高成績はそれを凌駕し昭和43年の全日本学生優勝大会2位。国士舘大に2─3で惜敗だった。そのとき大将を務めた野崎義昭さんが、翌年には全日本学生選手権大会決勝を同じ中京大の佐山夫さんと戦い、優勝を果たしている。

 当時の指導法が『夢剣士自伝』の中で紹介されている。ひたすら三本勝負だった。言い換えれば前田流の「もう一本」「もう一本」と追い込む稽古だった。これはと思う選手、レギュラーには短くても20分、惠土さんの気分次第でいつ終わるか分からない稽古を続けた。間に掛かり稽古をはさむこともある。野崎さん相手には1年生のときから40分ぐらい、少し下の豊村東盛さん(現範士八段)には最長で1時間15分続けたという。一方でレギュラー以外の選手には5分で稽古を終えた。とにかく一対一で鍛えるのが惠土さんの基本的な姿勢だった。

 当時の稽古は午後の2時間あまり、1人にそれだけ時間を割いているので2、3人と稽古して終わる。稽古時間は最初からいきなりその稽古で、素振りや早素振りなどはそれ以外の朝や午前中の時間に行なっていた。

基本練習はいらない

 昭和54年に金沢大学へ移ってから数年後の話。新入部員が入部して驚いたのは大きく面打ち、小手面打ち……というような基本練習がないことだった。惠土さんはこう述べている。

「できることをやってもしょうがないからね。他の練習で十分補えるし、剣道でいちばん重要な基本というのは、『打つ・突く・かわす』だと。これがなければ剣道たり得ないわけです。(中略)大きく振りかぶって面を打つだけが基本じゃないんです。それは基礎的な動作であって、基本とはちがう」

 基本をひたすら繰り返すことで上達することが常識とされる剣道界で、「できることをやってもしょうがない」と言った人は、たぶん他にはいない。

 蹲踞しての胴打ち、向かい合って早素振りの要領で胴と逆胴を打つ、800〜1キログラムの竹刀を使っての重素振り、跳躍素振り、スクワットジャンプしながらの素振りなど、実戦につながる狙いを持って考案した独自の稽古法の数々が同書で紹介されている。

 切り返しにしても、体育館の端から端まで前に進みながらの切り返し、横移動の切り返し、左右胴の切り返しなど、実戦につながる手の内や足さばきを養うために工夫されていた。すべての稽古に理由、狙いがあった。

 金沢大学ではつねに全国大会ベスト8を目標にしており、男女ともそれを達成した。全日本女子学生選手権優勝者も生まれている。そのために必要な稽古だけを行なっていたのである。

弱い相手と稽古する

 金沢大学の教え子で全日本女子学生選手権2年連続2位の戦績を残した小田佳子さん(現・法政大学スポーツ健康学部教授)の話が『夢剣士自伝』で紹介されている。高校までは、上の先生がきたら必ず掛かるとか、先輩たちに掛かるのが稽古と思っていた。ところが惠土さんには「そんなに強い相手に掛からなくていい。3割は自分より上の人に掛かる、7割は自分と互角か、少し下の相手と稽古して、勝ち方を覚えていけ」と言われた。惠土さんはこう述べている。

「新しい技を覚えようとするとき、上の人と稽古したって通用しないからね。まず下の者との稽古でいろいろと試して、十分に使えるようになったら上の人にもやってみる。やみくもに強い人に掛かっていくばかりでは進歩しません」

 剣道の世界では「上位者に掛かることで強くなる」のが当たり前で、それこそが稽古だと考える人もいるだろう。だが、「互角か少し下の相手と7割」はスポーツ界ではかなり前から言われている常識で、そういう研究結果もある。剣道でも高校の指導者などではそれを実践している人もいるかも知れない。惠土さんは剣道界の常識よりも、もっと広い世界の常識に従った。

指導者の助言の仕方

 小田さんが入部して間もない頃、部内での試合稽古で一試合を終えた小田さんが惠土さんの前に駆け寄り「お願いします!」とアドバイスをもらおうとすると、「いちいち聞きに来るな。見ていない!」と言われ、驚いたというエピソードも紹介されている。小田さんは高校まで試合の後は当然のように監督の元に駆け寄り、指導を受けていた。

 惠土さんはこう言う。

「これは当たり前のことだと思うけどね。たしかに欠点なんていうのは見たらわかるけど、じゃあもともとの原因がどこにあるかまではわからないですよ。原因がわからないと簡単にアドバイスをしたり直したりはできません」

 大人の稽古会で、終わると八段や範士の前に座って列を作り、順番にアドバイスをもらうという光景がある。そんな慣習に惠土さんは異を唱えていた。これは私が直接聞いた言葉だ。

「たとえば外から招いた指導者が初めて掛かってきた剣士にどれだけ適切なアドバイスができるのか。その人の日々の稽古の仕方や成長ぶりを分かっていなければ見当違いの助言をしてしまうかもしれない」

 また、こんな話もある。金沢大学にOBが稽古に来たとき、1年生が防具を持ちに走っていくと叱られたという。惠土さんはこう述べている。

「先輩がきたからといって、慌てて防具を持ちに行くというのは、僕にとっては許されないことなんですね。(中略)堂々と防具を渡して準備させるなんて、そんなОBならこなくていい」

多様性を求める

 昭和42年、全日本選手権出場を決めた後、肉離れを起こしてしまった惠土さんは、本大会に二刀で出場した。

「もともと僕は剣道を学ぶ者の心得として、中段だけでなく、上段や下段、上段に対する平青眼や霞の構えなど、あらゆる構えを研究すべきだと思っていました。構えの中には当然、二刀も含まれます」

 と考え、その少し前から二刀の練習も積んでいた。この頃から惠土さんは上段の相手に対し片手上段の構えをとるようになった。同じ年、全国教職員大会の決勝では片手上段に構えて馬場欽司さんを破っている。昭和47年の全日本都道府県対抗優勝大会で、やはり片手上段で川添哲夫さんに勝った試合はユーチューブで見られる貴重な映像だ。

 平成4年に全日本学生剣道連盟で二刀が解禁されるにあたって、前年に行なわれた講習会で実技を披露したり、戦前から二刀を遣う剣士の映像を紹介するなど大いに尽力している。その後、金沢大学の学生の中に二刀で全日本学生大会に出場した選手が何人もいる。

 金沢大学には右上段の選手もいた。ある女子学生は大学から剣道を始めた初心者で、初めは左上段に構えたが、バドミントンの経験者で右の方がうまく強く振れるということで右上段にした。4年生のときには全国大会で活躍する選手に育った。

 構えだけではない。さまざまな技を遣えてこそ上級者、と惠土さんは考えていた。平成元年、全日本女子学生選手権の決勝で敗れた小田佳子さんに、「来年は、突きと半面をやるしかないな!」とアドバイスした。小田さんは半信半疑ながらも、1年間突きと半面を練習して翌年の大会に臨む。再び決勝に進み、半面を繰り出すが竹刀は宙を舞い、次の瞬間相手の面が決まった。惠土さんはこう述べている。

「北京オリンピックでフィギュアスケートの羽生結弦選手が4回転半ジャンプに挑んで負けましたよね。あれと同じだと思うんです。競技者として技術を求める者は、旧態依然としたやり方のままではダメなんです。よっちゃん(小田さん)の幅を広げるためには突きと横面をやったほうがいい。その技をあの舞台で、思い切って出した。結果として負けたんだけど、体育科の専門家としても貴重な財産だと思います」

平成3年、全日本学生剣道連盟の講習会で、二刀の実技を披露

八段のあり方

 惠土さんは七段以上の段を受審しなかった。『夢剣士自伝』のあとがきにこう書かれている。

「私は中京大学在職中にスポーツの科学的研究を行う宮下充正先生らのグループに加えていただき、科学的研究に取り組むようになりました。そして東大在籍時に、サッカーで全国優勝経験のある浅見俊雄先生の、『実技と研究の橋渡しをするのが自分の使命だ』という言葉に共感し、私が剣道界に恩返しができるとすればまさにそれだ、という思いが明確になりました。段位はあくまで奨励のためにあり、そのような立場で専門家として歩むことを決めた私に必要なものだとは思いませんでした」

 自身にはこのような確固たる矜持があった。だが教え子からは何人もの八段、範士が生まれており、八段審査に臨むにあたってアドバイスしたり、稽古をつけたりもしている。

 八段のあり方については、『剣道日本』平成28年3月号で中京大学の教え子である豊村東盛範士八段と対談しているが、その中でこんな疑問を投げかけている。

「八段の『付与基準』を見ると『剣道の奥義に通暁、成熟し、技倆円熟なる者』とある。46〜47歳ぐらいの人がドーンという面を出して当たったからといって通すのでは、それを『円熟した技倆』と言えるのかな?」

「剣道の技術は中段だけではないわけで、構え方としては上段もある。それから二刀もある。下段もある、八相も脇構えもある。『技倆円熟』なはずだから、そういう構え方もできなければならない、教えられなければならないというのが私の持論なんだけど……」

「正しい剣道」への疑問

 剣道のあらゆる技術がすべて身についている人を八段とすべきと惠土さんは考えており、現在の審査で評価されるようないわゆる「正しい剣道」という考え方に、明らかに疑義を抱いていた。上記の対談ではさらにこう指摘している。

「もともと三百いくつあった流派から集約してきて、剣道形がつくられ、戦後の剣道になり、さらにそれをモデル化したのが今の高段者の剣道だと私はとらえているんだ。そういうモデル化した技だけではちょっと心配だと思うんです。(中略)モデル化した剣道だけをしていれば、我々が知っている戦後の先生方が遣っていたような多彩な技や構えというのも、いずれ消えてしまう、今まさに消えようとしているのではないかと」

『夢剣士自伝』ではさらに辛辣である。

「僕らみたいに、バタバタしてかっこよくない剣道をやっていた連中に負けた人たちがいたわけです。その人たちが、のちに段位や称号を取ったりして、僕らみたいな剣道はダメだということを強くいい出していったということもある。競技で勝つヤツというのは圧倒的に少ないですよね。段位や称号を持つ人のほうがずっと多いわけで、その人々が立派なことをいって神格化されていった。そして、それが正しい剣道ということで定着してきたんじゃないかな」

 惠土さんは選手時代に「当てっこ」という批判も受けたそうだ。だが、後年まで求めたのは、あらゆる構えや技を遣いこなす多彩で多様な剣道だった。それはとても武道的、あるいは武術的であり、色彩豊かな剣道だと私は思う。

剣道界への遺言

 現在、昇段審査で求められるような「正しい剣道」だけが剣道のあるべき姿なのだろうか。2023年の今を生きている普通の日本人にとって、興味深い、心惹かれるものだろうか。そうではないから剣道人口が停滞し、世の中の注目度が減っているのではないか。むしろ惠土さんの求めた剣道の中に、再び多くの人に注目され、発展するための要素が数多くあるのではないか……。『夢剣士自伝』の編集作業中、戦後復興期からの惠土さんと剣道界の歩みをたどりながら、そんなことを思った。

 冒頭に、剣道界の常識にとらわれない人、と書いたが、惠土さんはただ自分の頭で考えたこと、体で知ったこと、あるいは研究の結果分かったことを信じて、そのまま実行した、とても素直な方だったと思う。人から言われたことや常識とされていることをそのまま受け入れるという意味ではなく、自分の頭と体で咀嚼して納得したことを信じて実行した、という意味だ。

 その結果として、その言動は剣道界においては異彩を放ったかもしれないが、同じ時代を生きる(剣道界以外の)一般の人々の感覚からいえば特異でも何でもなかった。剣道経験者でない私は、自然に受け入れることができた。自分を大きく見せるようなことも一切なかったので、私にとっては剣道指導者の中では数少ない、普通に話のできる普通の人だった。

 惠土さんは「エピローグ 夢剣士の夢」でこう述べている。

「剣道の復活があり、戦前派から戦後派への世代交代があり、上段全盛の時代があった。足を使う剣道があり、突きを中心に据える剣道があり、技術的にもさまざまな変遷があって、その結果たどりついた現在の地点は、八段に合格するような技術というものが正しい剣道だということになっています。

 剣道人口の減少に歯止めがかからないような状況の中で、ほんとうにそれでいいのか、これからどうすればいいのか。そもそもの近代剣道の出発点である明治にまでさかのぼって考え直さないといけないのではないか。そんな時期にきているのではないでしょうか」

 その通りだと思う。

しかし現実を見ると「さかのぼって考え直す」場はなく、そんな場が設けられる気配すらない。惠土さんが追い求めたのとはまったく別な方向に、まったく別な論理で剣道界が進んでいる気がする。どこかで画期的な方向転換をしなければ衰退の道をたどるばかりだと思う。とても残念で、無力感にさいなまれる毎日である。

ただ、剣道に関わって40年近くなるが、その大部分の時間に渡って惠土さんがいてくれたことは、私にとってとても幸福なことだった。感謝申し上げるとともに、改めてご冥福をお祈りします。

(えど・こうきち)昭和14年(1939)愛知県に生まれる。中学2年の時に剣道(しない競技)を始め、中京商業高校2年でインターハイ団体優勝、中京大学の4年間は全日本学生選手権で毎年決勝に進み、優勝2回という大会史に残る戦績を残す。全日本剣道選手権には9回出場し、2位1回(昭和40年)、3位3回。指導者としては中京大学の部員を鍛え上げ、全日本学生剣道優勝大会準優勝、全日本学生選手権優勝など全国的強豪校の地位を確立した。昭和50年に東京大学に移り、研究生・助手として剣道を科学的に研究する傍ら、同大学剣道部を指導した。昭和54年、金沢大学に赴任。剣道部の監督〜師範として全日本女子学生チャンピオンを育て、団体でも男女ともに全国ベスト8に導くなど、科学的研究に基づく独自のトレーニング方法の効果を実証した。退職後はNPO法人日本武道修学院を立ち上げ活動を続けた。金沢大学名誉教授。2023年4月21日逝去。

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