第24回全日本剣道選手権大会(1976)、教員1年目の右田幸次郎が頂点に。2年連続で教員がベスト4を占める

全日本選手権物語

 第24回全日本剣道選手権大会は,昭和51年(1976)12月5日に日本武道館で開催された。この年から出場選手が2名増えて58名となる中で、前年に引き続いて教員の選手がベスト4を独占した。優勝したのは国士舘大学をこの年の春に卒業したばかりの右田幸次郎(熊本・23歳・四段)である。

 ベスト8のうち5名を教員が占めた。警察官は野崎義昭(愛知・28歳)、坂口忠勝(香川・31歳)、橋本正道(京都・26歳)の3名。2年前に3位となった実力者の野崎は、2年前の準決勝で敗れた相手でありその年の優勝者である横尾英治(和歌山・26歳)に再び敗れた。3回目の出場となった坂口は佐山春夫(栃木・28歳)に延長2回の末、コテを奪われ敗退。5年前の第19回大会で2位に入賞した時は栃木県警所属だった佐山は、その2年後に教職に転じていた。初出場の橋本は3回戦で過去3度優勝の千葉仁(東京・32歳)に突きを決め、殊勲の勝利を収めた。しかし右田には面を奪われ、鍔競り合いからの引き面で追いつくも、突きにいったところを面に乗られて敗れた。こうして警察官はベスト4を前に全員が姿を消した。

 前年に2回目の優勝を果たした川添哲夫(高知・26歳)の準々決勝は教員同士の対戦となり、東京教育大学(現・筑波大学)卒の渡辺明(秋田・27歳)を下した。渡辺は秋田高校時代にインターハイ団体優勝、東京教育大学では2年連続全日本学生優勝大会2位となっている。昭和45年の決勝では川添らのいる国士舘大学と対戦し、横尾と引き分けている。

 こうしてベスト4は国士舘大学卒の右田、横尾、川添、中京大学卒の佐山という顔ぶれとなった。右田が1年生の時の4年生で主将だったのが横尾、その1学年上の主将が川添、佐山は川添の2学年上である。

 準決勝は佐山×川添、横尾×右田の組み合わせとなった。前者は5年前の決勝の再現である。延長となり10分を要した試合は、俊敏な動きから技を出す佐山が、川添の起こりに面を決め雪辱を果たした。一方の横尾と右田の試合は、右田が打ちに出るところをとらえて横尾が面を先取。しかし機を見て片手突きを決め追いついた右田は、さらに横尾の出ばなに面を決めた。「剣道日本」(1977年2月号)は「今大会で、いちばん見応えがあったのがこの試合である」と評している。

 近年になって、当時の映像を見てもらいながら右田に感想を聞いたことがある(「剣道日本」2023年3月号)。この準決勝については次のように振り返っていた。
「一本目に面を取られて、ああこれでダメだと思いました。突きは無意識に出たのでしょう。狙ったわけではありません。大学の時も片手突きはよく出していました。しかし最後の面は、横尾先生が来るところを狙っていたと思います」

準決勝、佐山×川添。佐山が面を決める

 

準決勝、右田×横尾。一本一本から右田が出ばな面を決める

 右田と佐山による決勝。右田は「やりすぎと思われるぐらいに突きで佐山をおびやかした」(「剣道日本」1977年2月号)。そして佐山が面を打ちにいったが空を切り、体が流れて半回転したところから元に戻ろうとした瞬間に右田が面を決める。さらに、佐山が上段から下ろした手を再び上げようとしたところに、右田がズバリと右小手を決めた。

「改めて観てみると、私は佐山先生に対して突きを連発しています。突きから牽制していったのでしょうが、あれでよく面に打ち落とされなかったと思います。(最後の)右小手は、うまくいいタイミングで取れたなと思います」と右田は語っていた(「剣道日本」2023年3月号)。

決勝、右田×佐山。右田が決勝の小手を打つ瞬間

国士舘大学卒業生が12名出場

昭和49年の横尾、50年の川添、そして右田と、3年連続で国士舘大学卒の教員が本大会を制したことになる。本大会には国士舘大学OBが12名出場していた。

 ベスト4が出揃った時点では川添と横尾の決勝を予想した人は多かっただろう。この年4月にイギリスのミルトンキーンズで行われた第3回世界剣道選手権大会では横尾が個人戦優勝、川添も団体優勝メンバーとなった。佐山も過去に2位という戦績がある。実績のある3人を抑えて初出場の右田が頂点に立った。

 「剣道日本」1977年2月号では、当時警察大学校教授であり国士舘大学師範でもあった伊保清次が解説を担当していた。当然彼らのこともよく知っている。右田については、「その勝因は一にも二にも伸び伸びと無欲に戦ったという一言につきる」と評価した上で、「武運に恵まれていたという面も考えられる」としている。佐山が準決勝で川添と10分間に及ぶ死闘を繰り広げたため、「優勝戦では得意のフットワークに精彩が観られず、上段から打ち下ろす竹刀にいつものスピードがなかった」。

 川添と横尾については「いまが絶好調、油の乗り切ったところである」とし、「すぐれた体格(横尾一八〇センチ、川添一七八センチ)に恵まれ、ともに二十六歳、しばらくは二人の時代が続こう」と伊保は評している。が、そうはならなかった。

 右田の勝ち上がりは以下の通りである。
1回戦 右田 メ─ 吉崎勝(福島)
2回戦 右田 メ─ 小野田稔(長崎)
3回戦 右田 メ─ 上村秀毅(滋賀)
4回戦 右田 メメ─ 橋本正道(京都)
準決勝 右田 ツメ─ 横尾英治(和歌山)
決勝 右田 メコ─ 佐山春夫(栃木)

 23歳での優勝は桑原哲明の21歳(第8回)、川添哲夫の21歳(第19回)、千葉仁の22歳(第14回)に次ぐ若さ、四段での優勝は川添に続いて2人目である。第24回大会の出場者の中では米倉滋(徳島)の21歳に次ぐ若さだった(他に同じ23歳が2名)。

 前年2位となり期待されていたやはり国士舘大学OBで教員の宮澤保信(宮城・24歳)は3回戦で坂口に敗退。3回戦で敗退したベスト16の選手には30代が多く、前述した千葉仁(32歳)は10回目の出場、岡田一義(三重・34歳・警察官)は6回目の出場だった。小山謙治(兵庫・30歳・警察官)は2回目の出場、同じ兵庫県警の浜田満男(31歳)、東レの会社員上村秀毅(滋賀・30歳)、教員の松井美喜男(静岡・30歳)の3名は初出場。そして沖縄の東恩納盛義(警察官)は35歳で3度目の出場だったが、沖縄県の選手として初めて3回戦まで勝ち上がり、川添に敗れたものの大きな拍手を浴びた。

 序盤戦で敗退した中には、やはり国士舘大学卒の教員で、昭和48年に世界選手権大会個人戦を制した桜木哲史(佐賀・27歳)がいた。川添の1学年上の桜木は、1回戦で神奈川県警の澤部哲矢(28歳)に勝てば2回戦で川添と対戦する組み合わせだったが、敗れている。第27回大会(昭和54年)で優勝する警察官の末野栄二(鹿児島・27歳)は4回目の出場だったが、出場5回目のベテラン千葉十一(奈良・33歳・警察官)に1回戦で敗退。

 大阪府警の2人、第29回と30回大会で2位になる小坂達明(28歳)は2回目の出場だったが、2回戦で静岡の松井に敗退、第34回大会で優勝する岩堀透(24歳)は、1回戦の初出場同士の対戦で小森邦彦(宮崎・25歳・警察官)に敗れた。前年に全国警察選手権で優勝し31歳で本大会初出場を果たした警視庁の小野勝順は、1回戦でやはり初出場の若槻満(島根・26歳・警察官)に敗れるなど、強豪所属の選手が比較的無名の選手に敗れたケースも多かった。

日の出の勢いの八代東高校から国士舘大学へ

 右田幸次郎は昭和28年、熊本県球磨郡多良木町に生まれた。黒肥地小学校4年の時に剣道を始め、多良木中学校時代に日本武道館で行われた全国少年剣道錬成大会で優勝すると、八代東高校を率いた名将・井上公義からスカウトされた。

 昭和30年に井上が八代市役所に就職し八代東高校剣道部の指導をするようになってから同校は徐々に力を蓄えていったが、初めて日本一になったのは女子で、インターハイ女子個人戦では桑原(のち川添)永子が昭和41年から2連覇、女子団体戦が初めて行われた昭和44年から2連覇を果たした。男子団体初優勝は右田が卒業した後の昭和48年。ピークを迎えたのはその10年後で、昭和58年と59年は男子が玉竜旗大会、インターハイともに連覇を果たしている。

 昭和44年に入学した右田は実家から通えない距離であったため、3年間、井上監督の自宅に下宿することになった。前例のないことだったという。井上の稽古は厳しかったが家での井上は「優しいおじいちゃんという印象だった」と後に右田は振り返っている(「剣道日本」2001年1月号)。2年生の時に玉竜旗大会で3位、昭和46年、3年生となって出場したインターハイで上位に進むことはできなかったが、優秀選手に選ばれている。

 井上の勧めもあって右田は国士舘大学に進学。最終学年となった昭和50年の全日本学生選手権大会では準決勝に駒を進めるが、町吉幸(慶応大学)に敗れ3位となる。全日本学生優勝大会では決勝に進出するも法政大学に敗れ2位という結果だった。

 昭和51年3月に卒業し、新設2年目だった熊本西高校の体育科教師として赴任。「剣道部員わずか十六名というから、自分の稽古にはならない」と伊保が記している(現在なら16人は「わずか」という数ではないが)。生徒と一緒に基本や切り返しからずっと一緒に稽古をし、熊本市中心部にあった振武館でも稽古を積んでいたという。

 昭和62年に井上が没した後、八代東高校は低迷するが、平成4年(1992)に右田が母校に赴任、平成13年に16年ぶりのインターハイ男子団体戦出場に導くと、その勢いで17年ぶりの日本一に輝いた。その後右田は山口県の東亜大学教授・剣道部監督に転じている。

45歳が優勝候補筆頭だった?

 教員の天下はこの年で唐突に終わった。川添は3年後に3位入賞を果たしているものの、教員優位の状況は昭和50年と51年の2年間だけの特異な現象だったというしかない。教員2人がベスト4に入った昭和49年、昭和54年までの期間を含めても6年間ほどだった。

 翌年の第25回大会から3年間は警察官が優勝、第28回大会(昭和55年)の外山光利(東海大学OB)が現在(2024年)に至るまで教員として最後の優勝者となっている。第25回大会以降、ベスト4に教員が3人以上進んだことはなく、2人進んだのも第27回(昭和54年)、第47回(平成11年)、第68回(令和2年度)の3回だけである。

 少し先になるが第32回大会(昭和59年)から出場資格が六段以上になったこと、学生の強豪選手が警察へ進む例が多くなったことなどが、教員衰退の理由としては考えられよう。それにしても唐突に衰退していった印象はある。

 国士舘大学が全日本学生優勝大会で初優勝するのは昭和39年で、そこから昭和47年までは2年に1回優勝を果たしている。その後も強かった時期はあるが、約10年間コンスタントに結果を残し続けたこの時期の国士舘大学に、尋常ではないパワーがあったのかもしれない。

 さて、伊保清次は「全体的に見ればまあまあの試合ではなかったろうか」と総評を述べている。「一回戦ではあまり見るべき試合がなく低調な大会になるのではないかと心配されたが、さすがに天皇杯がかかった大会である。二、三回戦と進むにつれて観衆の期待を満足させるに足る試合が次つぎと展開され、場内は興奮していった」。

 一方、「剣道日本」の同じ号のレポートで剣道評論家の井藤尚武は大会を酷評している。
「総じて思うに、力強さがなく、品位にとぼしく『つばぜり合い』はお休みどころとなり、互いに仲良く支えあい、審判の『分かれ』の声を待っている姿は、あたかも、冬空の枯木ににて哀れであった。また、身をのり出し、手に汗を握るような、人の心を引きつけて離さない、見ているものの息を上げてしまうような勝負はなく……」

 井藤は「剣道日本」創刊に尽力した人物である。この方がいなければ同誌は生まれていなかったといえるほどで、創刊前夜は井藤の経営する病院が編集室になっていたと聞いている。私も後に一度だけお会いしたことがある。

 それはそれとして、井藤の記事の中には私が大いに違和感を感じた部分があった。
「二回戦ではもっと大きな星が落ちた。今大会の実力No.1・佐藤博信七段は、まさに優勝候補の筆頭で、これは剣道人衆目の一致するところ」。

 確かに佐藤は過去4回3位に入賞しており実力は疑いようがないが、45歳で最年長の選手を優勝候補筆頭としていることに驚く。しかも「剣道人衆目の一致するところ」? 本当だろうか。すでに前年までの7年間、20代の選手が優勝を続けており、40代の選手は5年前の佐藤を最後に入賞も果たしていない。この年の出場選手58名のうち38名が20代、18名が30代で、40代は佐藤を含め2人だけだ。

 過去の優勝者の年齢は昭和34年の7回大会まではすべて30代、昭和35年から9年間は40代と20代が半々だった。これは戦後の空白期があったことで当初は戦後に始めた20代がいなかった、昭和35年以降は戦後に剣道を始めた20代が台頭して戦前戦中世代は40代になっていたから、と簡単に説明することができる。それで間違いないと思う。

 しかし剣道は年齢、経験を重ねるほど強くなるものであり、40代が勝つのは当然のことと井藤はとらえているようだ。別の年の新聞記事でもそういう論調の記事を見かけるので、戦前から剣道を知る人たちの多くは本気でそう考えていた、それが当たり前だったのだろうと改めて感じた。そもそも「剣道日本」は、当時の剣道が従来の伝統的な剣道と姿を変えつつあることを危惧する人たちによって創刊されたという側面がある。当初は日本刀や古流剣術、剣道界の先人などを主な特集のテーマとしていたことからも分かる。

「『刀の理法にかなった剣道』、この視点に立って、選手権大会のあり方や、現代剣道そのものを見直し、画期的な改革をすることが必要な時期にきているのではないか、今大会を通じて強くそれを感じた」 と井藤は締めくくっている。また、編集部の記事としても、「見応えある試合が少なかった」という見出しで、「全体的にいえば、気の攻めや位の攻めがなく、ただ調子、タイミングで打ち出す技が多かった」と書いている。

 このような見方に賛同する読者、剣道高段者は少なからずいたのだろう。自分たちが戦前から見てきた、実践してきた剣道とは違うと感じていたのだろう。20代が強いのを当然と考える私たちのような「スポーツ的」な見方とは相容れない価値観があった。そういう人たちが「剣道の理念」制定や、昭和54年の規則改正、昭和59年の出場資格制限へと剣道界を導いていったのだと思う。

 今振り返って、それらの措置が剣道の内容を高めることに、あるいは剣道人口を増やすことに功を奏したとは評価できないのだが。

2025年4月15日記

閉会式

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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