パリオリンピックで阿部詩選手の号泣を見てふと思った、柔道と剣道の人口が減る理由

観の目見の目

 パリオリンピックの柔道があとは最重量級と団体戦を残すだけ、というタイミングで書いている。

 今回のオリンピックでは審判員の判定やルールそのものについて、さまざまな疑問や意見がネット上を飛び交っている。その問題については少し落ち着いてから書くことにして、ここでは阿部詩選手の「ギャン泣き(号泣)」問題をきっかけに考えたことを書きたい。

 2回戦で敗れ会場中に響き渡るほど号泣した阿部選手の態度に対する賛否は半々といったところだろうか。擁護派は、「相当な重圧があったのだろう」「それだけすべてをかけてきたのだから」「見ていてもらい泣きした」「阿部選手ほどの努力をしていない者が批判する権利はない」などと、否定派は「みっともない」「子どものようだ」「相手へのリスペクトがない」「おごりがあった」などと主張し、意見は対立している。

 否定派の意見でとくに目についたのは、東国原英夫氏がテレビ番組で発言した「柔道家として、武道家として、もうちょっと毅然として欲しかった」という言葉に代表される見方だった。SNS(私が見ているのは主にXとヤフーニュースのコメント)上では、同様の意見がとても多い。「剣道経験者ですが、剣道ではガッツポーズをしたら勝利は取り消しで、一切の感情を見せてはいけない」という書き込みもあった。阿部選手に勝ったディヨラ・ケルディヨロワ選手(ウズベキスタン)が、阿部選手に勝った後も、さらには決勝が終わるまで、ガッツポーズはもちろん笑顔もまったく見せず冷静な態度で優勝を勝ち取ったことで、ケルディヨロワ選手こそ真の武道家・柔道家であるという指摘もあった。

 たぶん武道経験のない人も含めてこれだけ多くの人が、「武道家」に対して高い理想を持っているということが、私は少し意外だった。それだけ武道が日本人には期待されている、と考えれば喜ばしいことなのかも知れないが……。

 思い出したのは前回の東京オリンピックで、サッカーの久保建英選手が敗戦後にグラウンドに座り込んで、子どものように号泣していた姿である。当時は泣いたことについて批判するような声はなく、「それだけこの大会にかける思いが強かったんだな、努力してきたんだな」というような受け止め方をした人がほとんどだったのではないだろうか。「TVカメラが泣いているところをわざわざアップで放映してさらし者にするな」というような批判があったように記憶している。

 スポーツ選手は号泣してもいいが、武道家はダメだと(一定数の)人々は考えているということなのだろうか?

 阿部選手の場合、会場が長い通路を通って退場しなければならず、次の試合の選手がそれを待っていたので、進行を妨げてしまったという特別な事情もあった。「わざわざTVカメラがアップで撮る必要はない」「いろいろな番組で繰り返し放映するな」「コーチが引っ張ってでも早くバックヤードに連れていき、見えない所で思い切り泣かせてやればよかった」という意見がある。私の感想もそれに近い。

「武士道にもとる行為」という批判すらあったが、2000年に生まれた女性に武士道を求めようというのは理解できない。武士道の意味も時代によって変遷してきたが、現代の日本人の行動規範として生きている部分も確かにあるのだろうし、武道の中にもそれは生きているのだろう。だが、武道=武士道ではない。明治になって柔道を確立した嘉納治五郎が目指したのは「精力善用」「自他共栄」である。武士が日本刀を持って闘うとき、「自他共栄」ではなく敵を切って勝つことが第一だったはずだ。

柔道は国際連盟から脱退すべき?

 少し別の角度から見てみよう。前述のように柔道の多くの試合で誤審や微妙な判定、分かりにくい判定が続出していることを受けて、SNS上では「柔道ではなくJUDOになってしまった」「このままでは日本古来の柔道は失われてしまう」といった書き込みが多く見られる。さらには「日本は国際柔道連盟を脱退して日本柔道を軸とした国際組織を立ち上げるべき」「国際連盟から脱退して日本の王者だけを決めればいい」といった意見まであった。

 柔道は1964年の東京オリンピックで初めて実施され、次の1968年は実施されなかったが、1972年のミュンヘンオリンピックから継続的に行われている(女子は1992年バルセロナオリンピックから正式競技)。東京オリンピックから60年、ミュンヘンからでも半世紀以上が経っているのに、今だにこのような意見が出ることに私は少し驚く。剣道関係者の多くは「剣道はスポーツではなく武道である」と考えているが、柔道もスポーツではなく武道であり、武道としての姿を失ってほしくない(あるいは取り戻してほしい)と一般の人が考えている、というのも発見だった。

「日本を舞台に外国人も呼んで、日本のルールで国際大会を行ったらどうか。その方が海外の人にも柔道の本質を理解してもらえる」という意見もSNSで目にした。これは剣道について私が以前から主張してきたことと全く同じである。しかし柔道については、残念ながらすでに遅きに失していると思う。

 世界で柔道の競技人口が最も多いのはブラジルで約200万人、2番目がオリンピックの舞台となっているフランスで56万人だという。フランスではサッカーに次いで人気があると、オリンピック関連番組でもよく紹介されている。さらにドイツが15万人(「ホームメイト柔道チャンネル」より)。それに対して日本は12万2000人ほどである。そして世界全体で201の国と地域が国際柔道連盟に加入している。

 今や剣道のように他国よりも抜きん出た人口を擁しているわけでもなく世界で4番目に過ぎない。半世紀も前から国際連盟を作って国際的な競技として普及させてきた。オリンピックにも足を踏み入れてしまった。当初は予想もしなかったかも知れないが、ルール改正などにおいて日本の意見が通らないこともあるのは当たり前だろう。ただ今回はとくに問題が噴出したが、以前はあった「有効」「効果」を廃止するなど、柔道本来の姿を取り戻そうという動きもあった。今となっては日本は各国と力を合わせて、主張するべきことは主張して、より良い方向に導く努力を続けるしかないのではないだろうか。

 それ以上に、剣道以上に深刻な国内の人口減少問題に取り組む必要がある。

 全日本柔道連盟の調査によると、柔道の競技人口は1990年代には約25万人だったのが令和3年には前述の通り半減している。

 もっと細かく見ていくと、小学生の柔道人口は平成16年(2004)の約4万7000人から、令和3年の約2万5000人に減少している。小学生は半減までは行っていない。

 しかし高校生人口(高体連調べ)は、比較した年が違うが、平成15年(2003)の3万6528人から令和5年(2023)は1万4055人に減少。20年間で半減を通り越して6割以上減っている。

 ちなみに剣道は同じ平成15年と令和5年の比較で5万9382人から3万1788人。46%ほどの減少だ。剣道も充分深刻ではあるが。

 「judo3.0スクール」というサイトの調査では「30年後、日本で柔道する人はほとんどいなくなっていると思うか?」という質問に、8割以上の人が「ほとんどいない」または「かなりいない」と答えている。

 同サイト上に有山篤利さん(兵庫教育大学准教授)という方が行った「なぜ柔道は年を取るとできなくなるのか~競技柔道が見失ったもの」という講義のレポートがある。剣道と比較して述べていて、とても興味深い。

「剣道では駆け引き、技のうまさ、気配の読み合いなどで勝負する、という暗黙の文化があり、このような勝負の場合、高齢者の方がうまい。大人の剣道家はそこを楽しんでいる」

 と指摘し、結論として、剣道家は技の巧拙を楽しんでいるのに対し、柔道の場合は試合の勝敗が重視されている。だから大人が柔道をしないと述べている。

 確かに大人、とくに中高年、高齢者においては剣道の人口が柔道人口よりはるかに多く、この指摘は的を射ている。他にもさまざまな考察が述べられているので、興味のある方はぜひ「judo3.0スクール」を御覧いただきたい。

 本稿を書いている時点でパリオリンピックの柔道競技は終わっていないが、日本は最多3個の金メダルを獲得(銀1、銅3で計7個)、柔道人口が5倍のフランス(銀5、銅2で計7個)より多くの金メダルを獲得しそうだ。前回の東京オリンピックよりは少ないが、それは本家の面目を保ったという評価になるのだろうか? ブラジルは銀1、銅1の計2個、ドイツは銅1個のみである。

(8月4日追記)結局団体戦まで終えて日本は金3、銀2、銅3の計8個、フランスは金2、銀2、銅6の計10個となり、総数ではフランスが上回った。ブラジルは金1、銀1、銅2となり、ドイツは銀1のまま。

 剣道関係者がオリンピックを目指さない理由として「勝利至上主義に走ってはいけない」とよく言う。柔道は日本では試合に強い選手だけが柔道を続け、その人たちはプロ意識を持ち、我々が想像する以上のハードな鍛錬を経てオリンピックに出るから強い、ということなのではないだろうか。つまり勝利至上主義に陥っている。それに対し、フランスやブラジルなどはオリンピックや世界選手権での勝利がすべてではなく、広く一般の人に柔道が愛好される方向で普及に成功しているということになるのではないか。

 フランスでは礼儀作法や規律正しさを身に付け、精神を鍛えるというような目的で、子どもに柔道を勧める親が多いという。日本における柔道は(剣道も)かつてはもちろんそうだったが、あまりにも競技での勝ち負けが重視されるようになってきてしまったのだろう。全日本柔道連盟は2022年から「全国小学生学年別柔道大会」を廃止した。行き過ぎた勝利至上主義に陥ることを防ぐためであり、英断と言えるだろうが、果たして功を奏するのか。

 日本とフランス、嘉納治五郎が目指した柔道の姿が実現しているのは、一般の人に広く愛好されているという意味では現時点ではフランスの方だと言って過言ではないと思う。前述のように日本で柔道をする人がほとんどいなくなったとしても、フランスやブラジルで柔道は多くの人に受け継がれていくだろう。その柔道の内容が嘉納以来の伝統的なものなのか、変質してしまうのかは分からないが。

 柔道の人口減少については、もう一つ、死亡事故のことも付け加えておく必要がある。先月(2024年7月)にも、京都の警察学校で柔道の訓練中に死亡事故がありニュースになった。記録が残る1983年度から2010年度までに、中学・高校の柔道活動中に事故で亡くなった方が114人いる(2020年度までに121人)。「全国柔道事故被害者の会」が海外での事故を調べた結果、1983年度から2010年までの間にフランスをはじめ、ドイツ、イギリス、イタリア、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどの各国で、一件たりとも死亡事故は報告されていなかったそうだ。

 むしろ日本が海外の柔道から学ぶべきことの方が多くなっているように感じられる。

 さて、一方で剣道は現在に至るまでオリンピック種目になることを目指してこなかった。オリンピック種目になった柔道は勝利至上主義に陥った結果、深刻な人口減少に悩んでいる、剣道が取った道が正しい、と考える人もいるだろう。

 だが、小学生から大学生、社会人若手ぐらいまでの年代では、剣道も柔道と同じ問題を抱えており、決して対岸の火事ではない。今のままでは、たとえば50年後に日本で剣道をする人はごく少なくなるのが明らかだ。そのとき、柔道よりはるかに人口が少ない海外での剣道がどうなるだろうか。世界剣道選手権大会の費用の多くを現在は日本が負担していると聞いている。日本の剣道人口が減っていく中で、いつまで世界大会が続けられるだろうか。

 そして単行本『剣道の未来』に書いたように、剣道の世界選手権でも(2024年の第19回大会は少し趣が違ったが)、勝利至上主義と言わざるを得ない戦い方が続いてきた。このままではオリンピック種目にならなくても結局は柔道と同じ道をたどる可能性が高いと私は思っている。だから柔道のように身動きが取れなくなる前に、日本の伝統文化として普及していくための策を講ずるべきだ。65カ国(地域)しか国際連盟に加盟しておらず、人口の上でも日本が他国より圧倒的に多い今ならまだ間に合う。

たとえば野球では国際大会でアメリカが日本に負けても、依然としてMLBが世界一のリーグであるような状況を保っている。さほど多くの国には普及していない競技であり、良い見本になるのではないかと思う(アメリカ国内では野球人気が低下しているそうだが)。

武道家は精神的にもキツいのではないか

 柔道は投げられ、倒される。素人が見れば単純に痛そうだと思う。怪我も多いだろうし、死亡事故さえある。伝統的な武道だから稽古、鍛錬、修業というような言葉で表されるように、日頃の活動自体も厳しそうなイメージがある。武道だからさまざまな面で制約が多く、指導者も厳しくて時代に合わないシゴキのような指導も残っていると想像する人もいるかも知れない。

 さらには勝利至上主義が蔓延し、試合に強くない人が続けていけるような環境がない。このあたりが日本国内で柔道人口が減っている理由と考えられる。

 そして冒頭の阿部詩選手の話に戻るのだが、それらに加えて剣道にも共通する衰退の理由を、仮説として述べておきたい(あくまで仮説であり、今後の検証が必要である)。

 阿部選手がそうであったように、武道家には、武道経験者からもそうでない人からも、「武道家らしさ」が求められる。そのことも武道がキツいというイメージを増幅させ、武道離れの一因となっているのではないだろうか。

 前回の東京オリンピックあたりから、取り組み方が従来とは異なるスポーツ種目が増えてきた。たとえばスケートボードなどでコーチに教わるのではなくYoutubeで技を見て練習するとか、スポーツクライミングでは競技前の「オブザベーション」(課題の下見)でライバルの選手とも相談しながら完登までの道筋を思い描く。あるいは金メダルを取った選手の周りに、国の枠を超えて敗れた選手が駆け寄り祝福する。東京オリンピックのスケートボードでは、難易度の高い技に挑戦して失敗しメダルを逃した日本人選手がいた。するとその選手の周りに選手たちが集まり、アメリカ人選手などが肩にかつぎあげてその技にチャレンジした勇気を讃えていた。(註:冬季オリンピックのスノーボードでの出来事と間違って記憶していましたが、修正しました)

 今の若い人たちはそんなふうにスポーツに取り組みたいのではないだろうか。感情を表すことが良しとされない武道よりも、もっと自由に感情を表現し、国境を超えて同じスポーツを志す仲間とともに自分を高めていきたいと考えるのではないだろうか。

 近年、スポーツの現場では、暴力はもちろん、指導者によるパワーハラスメントや、故障につながるような過剰な練習、猛暑の下での練習や大会開催などが否定されるようになった。たとえば野球の世界では、昔のようにただ多くの球数を投げ込めば勝てるという考え方は完全に否定されている。

 一般社会でも働き方改革が進み、「24時間戦えますか」の時代とは大きな隔たりがある。パワーハラスメントや男女差別が問題になる。会社への忠誠心は薄れ、会社内外で会社の人たちと長い時間を過ごすよりもプライベートを第一に考えるという風潮になっている。そんな社会をスポーツ界も反映している、というか同じ方向に歩んでいるのだと思う。

 スポーツは科学的知見に基づき、負荷をかけすぎて故障するのを避け、精神主義に基づく必要以上の長い練習やキツい練習を避けるようになった。

 しかし、必要な負荷をかけてトレーニングをしなければどんなスポーツでも結果が出ないことは、今も昔も変わらない。それは肉体的に苦しいことであるが、結果を残すスポーツ選手は自らにそれを課していることも変わらない。

 だが武道はそれに加えて、「武道家にふさわしいふるまいをしなければならない」という精神的な負荷が余計にかかるのではないだろうか。

 もちろん武道の規律を緩めてガッツポーズもありにすればいいということではない。試合の場はもちろんその外でのふるまいも立派な武道家を目指して続けている人、あるいは子どもにそんな人になってもらいたくて武道をさせる親もいる。そして武道経験者もそうでない人も、武道家は武道家らしくふるまってほしいという期待を持っている。最初に述べたように武道の価値が一般の人々にも認められているということでもある。そのイメージを変えたら逆に人気がなくなってしまうだろう。

 でも現実として、自分からあえてその厳しい道を選ぶ若者は減っている。そして親世代の考え方もそうなりつつある、ということなのではないだろうか。

 ジレンマである。

(2024年8月2日記)

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