第3回全日本剣道選手権大会(1955)、国士舘大卒の警察官、サラブレッド中村太郎が初出場初優勝

全日本選手権物語

 第3回全日本剣道選手権大会は昭和30年(1955)、11月20日、東京両国の国際スタジアムにおいて開催された。国際スタジアムは第2回大会の記事で詳しく説明した通り、元の両国国技館である。

 優勝したのは初出場の中村太郎(神奈川・33歳)だった。警察官として初の優勝者であり、後に第7回大会でも優勝して初の複数回優勝者となる。

 中村太郎は大正11年(1922)生まれ。父中村藤吉は京都の大日本武徳会本部で修業したのち、当時の朝鮮、さらにアメリカに渡って剣道を広めた異色の剣道家だった。京城(現在のソウル)で生まれた長男・太郎は3歳の頃から竹刀を握り、岡野亦一に預けられて13歳で国士舘中学に入学、さらに国士舘専門学校へ進んだ。同期にはのちに警視庁で活躍する森島健男らがいた。

 父藤吉は北米武徳会を発展させ5万人もの会員を抱えるようになったが、日中戦争が始まると昭和12年に帰国、東京杉並に北米武徳会皇道学院を立ち上げる。戦後も剣道復活前に今も続く大義塾を創設した。中村太郎は剣道復活とともに各大会で活躍する。昭和28年の第1回全日本都道府県対抗優勝大会で東京都の先鋒として優勝を果たすと、昭和29年に神奈川県警察に奉職、この昭和30年には全日本選手権の前に行われた全国警察選手権大会(個人戦)を制していた。

 第3回大会決勝の対戦相手は42歳の植田一(香川)。名剣士植田平太郎の三男で、すでに戦前から高松商業学校、高松高等商業学校などの剣道教師を務め、戦後は一時会社員をしていたが剣道が復活すると香川県警察の師範となっていた。第1回大会にも出場し4位、全日本選手権出場は3回のみで第5回大会(ベスト16)が最後となった。中倉清と並び、生まれたのがあと10年(あるいは5年でも)遅ければ、この大会の頂点に手が届いていた剣士ではないだろうか。

 後年、植田が決勝を振り返っている。試合の少し前に警察の講習会で両者が稽古する機会があり、そこでは植田得意の片手右半面がよく決まっていた。
「わたしにはそのときの印象が残っていたのです。それで片手右半面に色を見せ、逆の(左)半面に諸手で打っていったのです。しかし、天才といわれた中村選手にはまったく通じませんでした。(中村は竹刀で左半面を防ぎ、返しざま跳び込み面を決めた)読まれていた上に、打ちが早すぎてまったくかわせませんでした」(「剣道日本」1992年8月号)

 その後、中盤に植田が跳び込み面を返していったんは追いつくが、数合後、植田が懇親の気合で面を打ち込むところを中村が出小手に切った。

『追悼中村太郎』という本の中で渡辺敏雄(範士八段・全剣連初代事務局長)が中村をこう評している。
「太郎君の剣道の良さは遠い間合から渡り込んで行く技の軽快さと、剣さばき、体さばきの鮮やかさとである。それにも増して移身(うつりみ)の巧さは天下一品」

 身長は165cm(167cmとする資料もあり)と小柄で、最大の強みはスピードであり、得意技は小手面。出小手も得意だった。しかし早い技だけでなく大技の面も遣った。すり上げ面も得意だった、といった証言が残っている。

 中村は翌年の第4回全日本選手権大会であと一歩で連覇というところまで歩を進めたが、決勝で浅川春男(岐阜)に敗れた。第8回大会まで6年連続で出場を果たしその後は出場していないが、優勝2回、2位が2回、ベスト8が2回と、必ず上位に進んでいる。この当時、実力的には頭一つ抜け出した存在だったのではないだろうか。 その後、神奈川県警察の監督や師範を務め、多くの後進を育てた中村だが、昭和44年、胃がんに冒され47歳の若さで生涯を閉じている。

閉会式にて優勝旗を授与される

 

警察官だけではなく、刑務官、教員、自衛官も活躍

 第3回大会での中村の勝ち上がりは以下の通りである。

1回戦 中村 メコ─ 小山長太郎(静岡)
2回戦 中村 コテ─ 小西雄一郎(福岡)
3回戦 中村 メ─ 高島覚恵(山口)
4回戦 中村 メメ─ 緒方敬義(熊本)
準決勝 中村 メ─ 長島末吉(東京)
決 勝 中村 コメ─メ 植田一(香川)

 1回戦で下した小山長太郎はこの年が唯一の出場だが、後に子の小山正司、孫の小山正洋が本大会出場を果たし、三代での出場を成し遂げる。

 2回戦の相手小西雄一郎(33歳)は前年の優勝者(西日本鉄道勤務)だったが、中村が二本勝ち。翌年の第3回全日本東西対抗大会では先鋒同士として対戦し小西が雪辱を果たしている。

 3回戦で対戦した高島覚恵は大正6年生まれの38歳。山口県の撓競技連盟、剣道連盟の創設に尽力し、昭和29年の第1回全日本東西対抗大会では西軍の先鋒を務めた。全日本選手権大会には初出場のこの年から5年連続、計6回の出場を果たしている。

 4回戦(準々決勝)で対戦した緒方敬義(熊本・38歳)は戦前、済々黌の黄金時代を担い数々の全国大会で優勝、武道専門学校を卒業し、この当時は会社役員だった。昭和31年と翌年の全日本都道府県対抗大会では大将として出場、先鋒を務めた弟の敬夫とともに連覇を成し遂げている。この第3回全日本選手権では警視庁の森島健男(東京)を破ってベスト8入りしたが中村に敗れた。本大会出場はこの年と翌年の2回だけだった。

「苦戦というか、気を使った試合は準々決勝の動きが早かった緒方教士でしょう。他の者とは警視庁でよく顔が会っていましたからさほどでもありませんでした」 と中村は日刊スポーツ紙上に談話を残した。同紙は「終始優勢だった緒方にしてはあきらめ切れぬ試合であり、今大会のヤマだった」と記している。

 準決勝で対戦した長島末吉(東京)は、3位決定戦で田島善人(佐賀)を下した。福島県の喜多方商業学校卒で警視庁所属。大正14年生まれでこのとき30歳、2回目の出場だった。第1回大会ではベスト8に進出、この後第5回大会にも出場して再びベスト8に進んでいる。警視庁勢としては阿部三郎、森島健男とともに大会初期を沸かせたが、この年の3位が最高成績となった。翌年の昭和31年には全国警察選手権大会(個人戦)で優勝を果たしている。

 準決勝で植田に敗れ4位となった田島善人(34歳)は初出場。伊万里商業高校を卒業した刑務官である。全日本選手権出場は通算2回で、この後昭和33年の第6回大会ではベスト8に進み、中村太郎に敗れている。その前年の全日本東西対抗大会には先鋒として出場し、中村太郎と第4回全日本選手権優勝の浅川春男を破るなど、6人抜きの大活躍を見せた。

 植田に敗れてベスト8の金子誠(福岡・39歳)は、福岡中学から国士舘専門学校に進み、戦後昭和21年に福岡商業高校に赴任。剣道禁止時代はサッカー部の顧問を務め、剣道復活後はこの昭和30年に、戦後初の(現在の)玉竜旗大会で同校を優勝に導いている。3年後にも全日本選手権出場を果たし再びベスト8に進んだ。本大会出場はこの2回のみ。

 準々決勝で長島に敗退しベスト8の竹原省吾(広島・43歳)は、熊本県の九州学院から武道専門学校に進学、卒業後は呉造船所に勤務し剣道師範を務めた。戦後は広島県剣道連盟や呉支部の発足に尽力し、後年は範士八段となって広島県剣道連盟の要職を務めている。全日本選手権出場はこの年が生涯唯一となった。

 やはりベスト8の蓮井肇(東京)は自衛隊所属の38歳。この年が初出場だったが勤務地が変わるごとに各都県から出場しており、第6回大会は東京から出場、兵庫から出場した第8回大会ではベスト4に進んだ。第13回大会は岡山から出場している。昭和42年には全日本都道府県対抗大会と国体で埼玉県の大将を務め、両大会で優勝を果たす。この第3回大会では前年2位の中尾巌(兵庫)を3回戦で下すも4回戦で田島に敗退。

 なお第1回大会優勝の榊原正(愛知)は、1回戦で梅山義雄(鹿児島)に敗れている。

19歳で初出場を果たしたのちの名将

 第1回大会から第4回大会まで、戦後の六段以上の段位制度がまだ制定されておらず、戦前からの五段までの段位と、その上にあった錬士、教士、範士の称号をそのまま踏襲していた。この第3回大会では1人を除いて出場選手は錬士または教士だったが、その唯一の例外が当時四段で、のちにPL学園高校(大阪)で多くの名剣士を育てる川上岑志(島根)である。昭和101220日生まれなので、まだ19歳だった。全出場者の年齢が分かる資料はないが、初めてこの大会に出場した10代の選手だったのではないだろうか。

 武道専門学校を卒業した父川上徳蔵が指導する大阪の旧制中学で、物心つく頃から中学生に剣道を習い、昭和17年に島根県大社町に疎開、終戦までは剣道経験者でない母を相手に打ち込みを続け、戦後も昭和21年に父が復員すると道場や空き地で剣道を続けたという。中学校はまだ剣道部がなく、大社高校2年の時に撓競技部ができ入部した。戦前、戦中に剣道経験はあったとはいえ、終戦時は9歳である。最初の戦後派剣士と呼んでいいのかもしれない。大社高校を卒業後、刑務官として勤務していた時期が数年あり、その後関西大学に進んでいるので、この大会当時は刑務官だろう。1回戦で矢野太郎(兵庫・第11回大会優勝)に敗れている。

 さて読売新聞(昭和30年11月21日付)に庄子宗光大会委員長はこんなコメントを残している。
「全体の実力が平均していたことと、レベルが向上してきたので延長になるような試合が非常に多かった」
 この年の決まり技総本数は56試合で115本。1試合あたり2.05本が決まっている。最近の令和6年は63試合で81本、1試合あたり1.29本である。現在に比べればとても多くの技が決まっており、現在ほど延長になる試合が多かったとは思えないが、その後の延長増加、決まり技の減少につながるような芽は早くも育っていたのかもしれない。

 同紙によれば、この日の観客数は「約五千」。大雑把な数であるが第1回大会は約1万人と報じられていた。各新聞の扱いも一部を除き第1回大会より小さくなっている。戦後復活以来昭和40年代から50年頃まで、剣道人気は右肩上がりに上昇していったと私は認識しているのだが、全日本選手権の人気はそう単純に上昇していったわけではないのかもしれない。

2025年10月28日記

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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