惠土孝吉著『夢剣士自伝』を刊行しました。
惠土先生を改めて紹介すると、昭和14年名古屋で生まれ、戦後のしない競技の時代に剣道を始め、中京商業高校時代にインターハイ団体戦で優勝。中京大学の4年間では4年とも全日本学生選手権大会(個人戦)の決勝まで進み、2回優勝という驚異的な記録を残しました。全日本選手権には大学4年のときから出場し、優勝にこそ手が届かなかったものの、2位1回、3位3回と、とくに昭和30年代後半は主役級の活躍をしました。
助手、助教授として後輩を指導した中京大学では、全日本学生優勝大会決勝まで駒を進めます。昭和50年から東京大学に研究生・助手として4年間在籍、ここでも剣道部の戦績を躍進させました。昭和54年に金沢大学に移ってからは、男女とも全日本学生優勝大会ベスト8まで押し上げ、全日本女子学生選手権優勝者を育てました。
その独特の剣道観やオリジナリティあふれる指導法については、とくに1980年代〜90年代から『剣道日本』ご愛読いただいている方々はご存知だと思います。本書は自らの稽古法や指導法を明かすとともに、川上岑志、戸田忠男らライバルとの激闘、川添哲夫との名勝負秘話、さらにしない競技からはじまる戦後剣道の歴史、剣道技術の変遷まで、70年以上に及ぶ剣道人生のすべてを語り尽くしています。そしてところどころに独自の剣道の味方が顔を出します。480ページに及ぶ大作となりました。
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「剣士惠土のウェブサイト」でも本誌の内容をさらに詳しく紹介しています。
本書刊行に至るまで……惠土先生との思い出
本書発刊にいたる経緯と、私と惠土先生との関わりについて述べたい。
私が惠土先生に初めてお会いしたのは、『剣道日本』編集部に入った1985年から間もなくと思っていたが、改めてバックナンバーを調べてみると1989年の終わり頃だったようだ。当時「剣道の科学」という連載にときどきご執筆いただき、特集記事でもご登場いただく機会が多かったので、何度もお会いしていたような気になっていたのかもしれない。
とくにその後10年ぐらいはお会いする機会が多かった。惠土先生の取材は私の担当になることが多く、平成の30年間に渡って『剣道日本』に所属する間は定期的に金沢に足を運び、大会会場などでもお目にかかった。2007年にはそれまでの惠土先生の研究の集大成として『剣道の科学的上達法』という単行本を刊行させていただいた。
惠土先生の剣道界における独自性を象徴するコメントを紹介したい。1991年の全日本選手権で、宮崎正裕さんが大会史上初の連覇を果たした。その頃、宮崎さんの剣風について批判的な意見が一部にあったことをご記憶の方も多いだろう。『剣道時代』には批判的な記事が掲載された。一方私のいた『剣道日本』は宮崎養護派だった。「日本経済新聞」に二誌ある剣道雑誌で意見が分かれているという記事が載った。
『剣道日本』は1992年1月号で「徹底解剖!宮崎正裕のすべて」という特集を組み、宮崎さんの体力測定のようなことまでしている。その記事の最後で惠土先生のこんな言葉が紹介されている。
「宮崎の剣道を一方的に否定することは、剣道の発展にはマイナスである。宮崎を批判する時間があるのなら、宮崎をいかに倒すかに時間を費やすべきであろう。堂々とした剣風で宮崎に勝つ選手が現われれば賞賛されるだろうし、宮崎もさらに努力する。宮崎のような選手も一つの個性として認められるべきでしょう」
まさに私が思っていたことをそのまま言葉にしてくれたような思いがした。剣道経験者でなかった私には、大会史上初という素晴らしい結果を残した選手を、勝ち方が悪いと批判する理由がまるで理解できず、怒りさえ覚えた。宮崎さんはその時の規則や一本の判定基準の中でどうすれば勝てるかを、究極までつきつめた選手だと思う。そういう剣道がよくないと言うなら、そういう剣道では勝てない規則に変えるか、判断基準を変えるべきである、と当時も思ったし、今もそう思っている。当時の編集部の先輩方やスタッフも同じ意見だった。
本書の最後のほうで惠土先生が宮崎さんとの親交についても触れているが、お二人とも、どうすれば剣道の試合で勝てるかの近道を、常識や教えにとらわれず、ストレートに自分の頭で考えたという点が共通しているように思う。野球界で言えば、選手としても監督としても「オレ流」を貫いた落合博満さんを思わせる。
剣道経験者でなく剣道界の常識や教えに触れてこなかった私には、このコメントに象徴される惠土先生の考え方には共鳴することが多かった。だから自然と担当させていただく機会が増えたのかもしれない。
『夢剣士自伝』の中で惠土先生が七段以上を受審しなかった理由が語られている。八段を目指していわゆる「正しい剣道」を目指す多くの剣士とは一線を画した、唯一無二の存在だと改めて思う。それでいて教え子の中から多くの八段や範士が誕生している。
惠土先生は自分の稽古にしろ指導にしろ、自分が考えて、あるいは科学的な知見に基づいて必要だと思うことだけをしている。一つだけ例をあげれば、金沢大学の稽古ではある時期から面、小手面などの基本打ちの稽古はしなくなった。理由は「できることをやってもしょうがないからね」。すごい言葉だ。
その他にも剣道界の常識とは異なるさまざまなエピソードが本書で紹介されている。
私が最も共感するのは、惠土先生が剣道に「多様性」を求めていることである。かつて『剣道日本』誌上で、中京大学の教え子であり本書にも登場する豊村東盛範士八段と対談した中で、最高段位である八段であるならば、上段や二刀、あるいは脇構えや八相といった多様な構え、そして多彩な技を使いこなせるべきだ、と主張していた。現在の八段審査では面と小手面だけできれば合格できるではないか、と指摘していた。
現実を見ると、高段位の審査ではいわゆる「正しい剣道」をする人だけが合格するだろうし、そのような「多様性」が求められる方向に向かうことは考えにくい。だが、『剣道の未来』にも書いたが、私は剣道の人気が長期低落傾向にある理由は、一言で表せば画一化していること、つまり多様性がなくなっていることだと思っている。
まっすぐな姿勢で打つ昇段審査向けの剣道は、やっている人にとっては理想像であるだろうし、皆が同じことをする中での洗練された姿、見事さ、のようなものを求める気持ちは分かる。でも、これは剣道未経験者で40年近く剣道に関わってきた者として断言するが、それは剣道をある程度修業した人にしかわからない。剣道をしたことのない人にとっては面白くないのだ。部外者にはその魅力が分かりにくくなっているから剣道人口が減り続けているのである。当たり前のことだ。詳しくは『剣道の未来』を読んでほしい。
今年(2023年)3月には野球のWBCが日本中の注目を集めた。それこそ二刀流の大谷翔平選手を筆頭に、村神様や岡本選手のような体つきからして大砲もいれば、吉田選手のように体は大きくなくてもオールマイティに打てる選手、火付け役のヌートバー選手、近藤選手のようなつなぎ役、周東選手のようなスピードスター……野手だけ例にあげたが、さまざまな個性を持つ選手がいた。だから面白いのである。
多様性、英語で言えばダイバーシティ。さまざまな場面で世界的にそれが求められている時代に逆行している剣道の人気が低下しているのは、当たり前である。
話はそれたが、名が知られた剣道家の中にそのような視点を持った人は惠土先生以外にはいないかもしれない。でも、剣道愛好者の中に、惠土先生の主張に共感する方は実は少なくないと思う。
さて、本書の刊行に至った経緯である。2018年初頭にそれまでの『剣道日本』版元だったスキージャーナル社が倒産した。数年前から新たな惠土先生の著書を刊行する準備を進めていたが中断してしまった。その後、個人出版社として『剣道の未来』を刊行し、スキージャーナル社で実現しなかった惠土先生の著書も進めるつもりでいた。東京でお会いしたり、当時私が住んでいた京都と金沢の中間の米原でお会いしたりもした。
コロナ禍でそれも中断していた頃、矢吹俊吉さんが惠土先生の自伝をまとめるべくインタビューを進めていると聞いた。
東京大学時代に惠土先生の薫陶を受け、卒業後講談社に入社した矢吹さんの名前は何かの折に耳にしたことがあったが、私にとって高校の先輩であることは、惠土先生に聞いて知ったと思う。私は高校時代剣道部ではなかったので面識はなかった。
矢吹さんがインタビューを進める中で、惠土先生が撮影していた昭和40年代から50年代の全日本選手権の映像を何らかのかたちで世に出したいという話になり、それなら剣道日本の(もう社員ではなかったが2019年に復活した『剣道日本』に関わっていた)鈴木にと惠土先生が言ってくださって、矢吹さんから連絡をもらった。
そして自伝の話も聞き、その後原稿を読んで感服した。私には書けない。私が進めてきた本よりもぜひそちらを出したいと思った。そして今回の刊行に至った。