ご存じない方が多いかも知れないが、国体(国民体育大会)は2023年の佐賀大会から「国民スポーツ大会」に名称が変わることが決定していた(略称は「国スポ」だそうだ。語呂が悪いな)。主催者である「体協」と呼ばれてきた組織は、すでに2018年、日本体育協会から「日本スポーツ協会」に名称を変更している。
追記=2020年に予定されていた鹿児島国体が新型コロナウイルス感染症の影響で延期され2023年に開催。2024年の佐賀大会から「国スポ」となる。
「剣道はスポーツではなく武道である」と考える人は多いだろう。『剣道日本』2019年7月号で木寺英史氏(九州共立大学教授)が「大学生でも剣道部員はほぼ100%が剣道をスポーツではないと考えている」と報告していた。子どもの頃からそういう考え方が浸透しているのであろう。
根源的な問いかけをしたい。
剣道は武道であってスポーツではないならば、「国民スポーツ大会」では当然実施すべきではないですよね? 日本スポーツ協会に所属していること自体がおかしいですよね?
いや、実際に日本スポーツ協会から脱退すべきと考える人はいても少数だろうし、補助金のことなどいろいろなマイナス面があるから脱退しない方がいい。でも、大きな矛盾を抱えているといえる。
筆者自身は、競技規則の下で勝敗を争うものである以上、スポーツに含まれると考えるし、むしろ「日本発祥のスポーツ」として広めていく方がいいと思っている。
さて、本稿の主題はそのことではない。国体、あるいは国スポでの剣道は今のままでいいのだろうか、という問いかけである。『剣道日本』2019年1月号の茨城国体の記事でも少し書かせていただいたが、国体剣道競技についてつねづね思っていたことを書きたい。
茨城国体の少し前、マツコ・デラックスさんらがMCを務めるTV番組で、国体の剣道では開催県の優勝回数が異常に多いことが取り上げられたのをご記憶の方も多いだろう。それを受けてネット上では「国体の剣道は八百長ではないか?」といった意見も飛び交った。
「八百長」ではないと私は思う。開催県と対戦する相手がわざと負けているわけではない。ただ、とくに成年の部では、開催県が優勝を必ず達成すべき目標として臨んでいるのに対し、対戦する選手(全員ではないにしても)に「相手が地元ではどうせ勝てない」という意識があることも確かである。実際に選手からそういう言葉を聞いたことがある。
そして審判はどうか。私は剣道の取材をするようになって35年を超えている。もちろんその間全部の国体を見てきたわけではない。が、これまで取材した国体を振り返ってみると、毎回必ずとはいえないし程度の差はあったが、地元びいきの判定はあったと思っている。地球が太陽の周りを回っていると思うのと同じくらい確信を持って、そう思う。
そんなことあるはずないという方は、ユーチューブにいくつか国体の映像がアップされているので、ぜひ見ていただきたい。私も現場で取材していた愛媛国体(2017年)の動画には、視聴した人たちのこんなコメントが並んでいる。
「地元贔屓するにしてもこれは酷すぎないですかね……」
「選手が一生懸命なのに審判が全部台無しにしてる 審判は何みてんの?」
「◎◎さんあの誤審良く耐えましたね」
「中学生の方がまだいい審判できるんじゃねw」
ここでは書けないくらいのもっとひどい罵詈雑言も浴びせられているが、現場で見ていた私の感想もこれらとほぼ同じである。
前述のマツコさんの番組がネットニュースになり、コメント欄にはおそらく剣道経験者や関係者から「地元チームが何年も前から強化して、選手を集め、意気込みもすごいのだから勝って当然、審判の地元びいきなどない」というコメントも見受けられた。もちろんそれもある。それも「見えない力」である。でも、それなら他の多くの競技も同じような結果になるはずだ。
そして「見えない力」はそれだけではない。
ある年の国体で、筆者はこういう体験をした。客席のすぐ前で試合の写真撮影をしていた。すぐ後ろの客席最前列にはすでに敗退した少年女子選手つまり高校生が座っていて、彼女たちの会話がよく聞こえてきた。目の前の試合では地元の県が戦っていて、とくに3人のうち1人の審判員が、明らかに地元びいきの旗を上げていた。普通の試合ならどう考えても一本にはならない地元選手の打突に旗を上げてしまい、さすがに他の2人は打ち消すという場面も何回かあった。
そのとき女子高生たちのこんな声が聞こえてきた。
「なに、あの審判!」
「恥ずかしくないのかな」
審判員は八段である。よく知らない方だったが、地元では当然指導的立場であり、優れた指導者として人々の尊敬を集めているかもしれない。実績もあるだろう。そんな人が十代の剣士にこんなふうに思われてしまう。これはちょっとショックだった。
もちろん彼女たちの発言が失礼だと言いたいのではない。私も彼女たちとまったく同じように感じていた。というより、汚れた大人である私は「もうちょっとバレないようにやればいいのに」と心の中で苦笑していた。
彼女たちが「大人って汚い」と思うほど純真かどうかは分からないが、剣道の審判への不信感が残った、あるいはそれを募らせたのは確かだろう。あるいは剣道ってそんなものなのだと認識を改めただろうか。剣道を続けて大人になっていくことが、そういうことを知って、やがて受け入れていくことであるとするなら、悲しすぎる。
こんな体験もある。ある年、地元のチームが3部門か4部門かで優勝を果たしたあと、同じ記者控室にいた地元の新聞社の二人が、こんな会話をしていた。
「うちの県って剣道強かったんだね」
「いや、ほとんど実績がないので、まさか優勝できるとは思わなかったっすね」
二人は嬉しそうだった。「剣道にはこういうことがあるんですよ」と喉元まで出かかったが、喜びに水を差すのも悪いと思ったし、剣道に悪い印象を抱かれてしまうかも知れないと思ってこらえた。複雑な気持ちになった。
そんなこんなで、私個人の意見としては、少なくとも国体の少年の部はないほうがいいのではないかと思っている。
優勝した地元チームはいい。子どもの頃から国体を目指して強化を続けてきて優勝したという達成感もあるだろうし、強化選手でなければ体験できないこともあっただろう。また、2016年の岩手国体で島原高校の松﨑賢士郎選手が、それまで大事な場面で何度も敗れた相手である九州学院高校の星子啓太選手に勝った試合など、感動的な名勝負もときにはある(これは地元チームが負けた後の決勝だった)。
しかし、地元以外のほとんどの選手にとって、国体に出ることは現状ではマイナスの方が大きいのではないかとさえ思う。世の中の理不尽さを知り、剣道の審判、あるいは剣道そのものへの不信感を覚える機会になってしまうのではないか。すでにほとんどの3年生は進路も決まっていて、国体の結果がスポーツ推薦に影響することもない。出場するほとんどの選手が大学へ進学し、何人かは将来の日本剣道を背負う存在になっていくのだから、インターハイが終わってからのこの時期、何かもっと有意義なイベントができるのではないか。たとえば講習会をして剣道形や古流の形を学ぶとか、剣道の歴史を学ぶとか、少し試合から離れたことをしてもいいのではないか、と思うのだ。
優勝した地元チームの選手たちが抱き合って喜んでいるのを見ると、頑張ったんだろうな、嬉しいだろうなと共感するところはある。でも、それ以外の人たちから見るとどうなのだろう。見に来た人たちに剣道の魅力は伝わるのだろうか。剣道を知らない人にはおそらく分からないと思うのだが、もしかして剣道という競技の公正さに疑問を抱かれたりしないだろうか。国体を取材するたびそんな気持ちになる。
さて、剣道に限らず国体全体にも多くの課題があると思う。
一つは開催自治体の費用負担の問題。過去何人かの県知事が声を挙げたり、古くは1987年(昭和62)の沖縄国体で全国を一巡したとき、これで国体の役目は終わったのではないかという議論もあった。一方ではスポーツ施設を改修、新築するための機会になるという面もあり、国体開催後もその恩恵にあずかっている愛好者もいるだろうけど。
もう一つは「渡り鳥選手」「ジプシー選手」などと呼ばれる、他地域から有力選手を国体のために引っ張ってくる選手の問題。剣道では開催後もその地で良き指導者となり、その県のレベルアップに貢献しているといういい面もあるが、何年か前には他の種目で居住実態がない選手を出場させて問題になり、その選手が獲得した点数が減点されたこともある。県によって取り組み方も違うようだ。
そして地元の総合優勝が当たり前になっていること。開催県が天皇杯、皇后杯を獲得することが当たり前のようになったのは1964年の新潟国体からで、1979年から2012年まではただ一度の例外である2002年の高知国体を除き、開催都道府県が両杯を手にした。高知国体では当時の橋本大二郎知事がその慣例に異を唱え、10位に留まった。その後は地元が両方を獲得するように戻ったが、2013年の東京国体から2017年の愛媛まで、皇后杯は東京が連続で獲得、2016年、17年は天皇杯も東京が獲得している。しかし18年は地元福井が両方を獲得し、19年の茨城も同様だった。
剣道は地元優勝に貢献しやすい。陸上競技や水泳でタイムが遅かった選手を勝たせることはできないが、剣道の判定は微妙であり審判員の主観によって勝敗が逆になってしまうこともありえる。だから地元優勝が多く、目立ってしまうというだけのことかもしれない。
日本スポーツ協会は国体改革を進めてきた。予算を削減するためにスリム化もされていて、たとえばなぎなた、銃剣道の武道を含む4競技は第70回大会より隔年の開催となった。一方でオリンピックにつなげるために、過去国体で実施されていなかったオリンピック種目を採用する方針が示され、たとえば女子レスリング、女子ラグビーなどが近年段階的に採用された。
日本スポーツ協会は2013年に策定した「21世紀の国体像~国体ムーブメントの推進」では、国体という大会の位置づけを以下のように表現している。
① 各都道府県の郷土を代表する選手が競う国内最大・最高の総合スポーツ大会
② 国民のスポーツへの関心やスポーツの文化的価値への認識を高める大会
③ 将来性豊かなアスリートの発掘・育成・強化を行う大会
おそらくはこのうち①と③に基づき、トップアスリートが出やすいような仕組みを整備しており、他の種目ではこれまで出なかったようなトップ選手が出場するようになった例もあるようだ。
だが、多くのメジャーな競技の選手にとって、果たして国体が最高の目標になるだろうか。それらの競技では国際大会の注目度が高く、トップアスリートは海外を転戦している。彼らの目標は国際大会で勝つことであり、最終的にはワールドカップやオリンピックなどのメジャーな大会で勝つことだ。国内の大会の中でも、全日本選手権、日本オープンといった大会の方が国体よりも大きな目標になっているし注目されている。一般のファンの人たちの注目度もまったく同様である。国際大会で活躍できない競技は注目度自体も低い。
国体がそれらの大会より上位の、あるいは同等の目標となるのは今さら無理だろう。国体が始まった昭和20年代とはまるで状況が違うのである。
だから私個人としては日本スポーツ協会があげる②の性格をもっと打ち出すべきだと思う。もっとアマチュアに近い一般の人々が出場する大会にする。あるいは一部のトップ選手を招待して、模範試合や講習会を行なうといったイベントにしてもいいのではないか。
剣道に戻れば、前述のように高校生はなくていいし、大人が都道府県対抗で団体戦を戦う試合は全日本都道府県対抗大会(男女)がある。そちらの方が出場選手数も多く、よりグレードが高い大会と位置づけていった方が得策なのではないだろうか。
競技団体側の希望で部門を減らしたりすることができるのかどうかは知らない。トップアスリートの出場を増やそうとしている中で、剣道だけは逆を目指すということもたぶんできないのだろう。でも、剣道界にとってもっと有意義な大会にするために、「国スポ」への変更はいい機会なのではないかと思っている。
(2019年12月記)