実際には見たことがないが、なぜか目をつぶると思い浮かぶ古い道場がある。茨城県水戸市にあった水戸武徳殿である。正式には大日本武徳会茨城支部武徳殿、だろうか。昭和4年に落成し、昭和20年の水戸空襲で灰燼に帰した。わずか16年しか存在しなかった建物である(そういう短命の武徳殿は全国にかなりあった)。私が生まれる15年前になくなっている。
あまり共感してくださる方はいない、逆に言えば少数だけどいると思うのだが、私は古い道場がとても好きである。各道府県にあった武徳殿や、学校、企業、個人の道場として戦前に建てられた道場、あるいは戦後でも古い道場様式(?)で作られた道場には、独特の重みがあり、空気がある。
多くの剣道をする人にとっては古い道場だろうが最新の体育館だろうが、同じ練習場、試合場でしかないのかも知れないが、見る側としてはまったく違う景色に見えた。古い道場にはそこで道場主として指導した人、剣道専門家を目指して、そこまでではなくても強くなりたくて青春を過ごした人……などの魂が漂っているような気がした。私は決してスピリチャルなものを信じる人ではないが、ちょっとそう感じてしまう。
水戸武徳殿は、私が通った水戸市立第二中学校の場所にあった。そこは元々は水戸城の二の丸で、武徳殿と県立図書館があった。向かい側の別な学校になっていた場所に水戸城の物見櫓も空襲まで残っていた。令和になってからそこに物見櫓が再建されている。
すべての道府県の武徳殿を写真、あるいは実物で見たことがあるが、写真の水戸武徳殿は各道府県の武徳殿の中でもかなり豪壮な建築物であったと思う。外観に見惚れてしまう。日本建築の一つの精華なのではないだろうか。
私の母はこの武徳殿から徒歩10分もかからない場所で昭和2年に生まれ、育った。聞いてみると、立派な建物だったよと語っていた。武道とは縁のない市民にも認知されていたのだろう。
剣道日本の編集部に配属されて2年目ぐらいに、京都の武徳殿に京都大会の取材ではじめて行った。「ぶとくでん」という名前は、たぶん武道をしていなければ、昭和の終わりの若者は知らない言葉である。でも私はどこかで聞いたことがあるような気がした。たぶん水戸二中在学中に、終戦当時まではここに「ぶとくでん」があった、と教わっていたのだと思う。
武徳殿があったあたりに「武道天覧記恩之碑」という石碑が立っている。武徳殿が竣工した昭和4年の秋に茨城県下で陸軍特別大演習があり、新装なった武徳殿で昭和天皇の御前で行われた武道大会を記念するものである。水戸二中のグラウンドの端にあったその石碑の下で、中学生の私は走り回ったり、友と話したり、ふざけ合っていた。
私が古い道場に惹かれるのは、そんなふうに武徳殿の跡地で中学時代を送ったからでもあるかも知れない。もしくは、母の記憶が私の中にも伝わっているのではないかとも妄想してしまう。母の胎内に私が宿るのは武徳殿がなくなって15年ほど経ってからだが、自分が武徳殿の空気を吸っていたような気さえしてくるのだ。またまたちょっとヤバい方向に行きそうだ。勇壮なその姿が目をつぶれば浮かぶのは、もちろん写真を見ているからなのは分かっている。でもなぜかそれほど惹かれるのである。
ちなみにこの武徳殿は二代目で、初代武徳殿は藩校弘道館の構内に明治34年に竣工している。私の通った水戸市立三の丸小学校は弘道館に隣接し、江戸時代は弘道館の敷地内、しかも武館つまり武術場があった場所にある。やはり私は武道に関わる運命だったのだと思う(まあ、同じ小中学校の卒業生はみんなそういうことになってしまうけど)。
柔道は畳の上でなければできない、相撲は土俵がなければ成り立たない。でも剣道はバスケットボールをするのと同じ体育館の床の上でもできてしまう。それはメリットではなくデメリットだったのではないかと私は思っている。武徳殿や道場でなければ成り立たないものであれば、今の剣道の景色はもっとまぶしいものになっていたような気がしてならない。