第5回全日本剣道選手権大会(昭和32年11月17日、東京体育館)を制したのは森田信尊(長崎・39歳)だった。森田は三菱鉱業崎戸砿業所勤労課に勤務する会社員で初出場。第3回大会にも出場権を得たが勤務の都合で辞退していた。
決勝はやはり初出場の松尾廉二(広島・42歳)との対戦となった。広島矯正管区主任師範という立場の刑務官である。森田、松尾ともに佐賀県出身で、軍隊時代に一緒に稽古をしていたという縁がある。伏兵同士であり、無名といってもいい2人による決勝となった。
小手を先取した森田に対し、松尾もすぐに小手を奪い返す。勝負は延長に持ち込まれたが、森田が上段の構えで松尾を追い込んで面を決め、頂点に立った。森田は次のような談話を残している。
「無欲の勝利といっていいでしょう。勝つことも負けることも考えずに一戦一戦ぶつかりました。二、三年前から上段に振りかぶる構えから面を得意とし、今日決勝の一本を面でとったことはうれしかった」(「朝日新聞」昭和32年11月18日付)
「けい古不足で自信はなかったが一回戦、二回戦と試合数を踏むにつれて調子も出、自信も湧いてきた。(中略)松尾さんは同県の先輩で海軍時代は一緒にけい古をやってきたので気楽にやれた」(「日刊スポーツ」昭和32年11月18日付)
森田の勝ち上がりは以下の通り。
1回戦 森田 メ─ 脇本愛一(奈良)
2回戦 森田 メコ─ 加藤正治(秋田)
3回戦 森田 メコ─コ 鈴木守治(愛知)
4回戦 森田 コ─ 賀来俊彦(大阪)
準決勝 森田 コメ─ 阿部三郎(東京)
決 勝 森田 コメ─コ 松尾廉二(広島)
3回戦では鈴木にコテを先取されながら逆転勝利を収めている。37歳の鈴木守治は第1回大会で3位の実績がありこの時が4回目の出場、翌年の第6回大会で優勝を果たした強豪である。
上段の剣士では初めて頂点に立った森田。身長は163cmと当時としてもやや小柄だったが、上段に構えると大きく見えたという。会社員としては第2回の小西雄一郎に次いで2人目の日本一ということになる。

第5回全日本選手権大会、上段で戦う森田信尊。確認は取れていないが決勝の写真だろうか。
のちの範士十段・大麻勇次の内弟子として修業
森田は大正7年生まれ。佐賀県杵島郡橘村立橘尋常高等小学校4年の時に、小学校の教師の手ほどきで剣道を始め、卒業後佐賀市にあった霊雨堂の内弟子となった。のちに範士十段となる大麻勇次の道場である。すなわち剣道の専門家を目指していたということだが、3年余りで病気のために断念し、三菱鉱業に入社する。海軍入隊をはさんで戦後も同社に復帰している。
全日本選手権で優勝が決まった直後、優勝インタビューのマイクをさえぎって、観戦していた大麻の元へ足を運んで頭を下げ、ともに涙を流したというエピソードが残っている。なお、全日本剣道連盟は発足後初段〜五段までの段位の上に錬士、教士、範士という段位制度をとっていたが、この昭和32年4月に大きく改正し、初段〜十段の段位と称号の二本立てとした。そのため前年までは出場選手のほとんどがただの錬士、教士だったが、この年から段位も加わった。森田は教士六段、大麻はこの時点では範士九段だった。
森田は戦前戦中から海軍や炭鉱などの剣道大会で活躍し、戦後は初めて正式競技となった昭和30年の国体で長崎県チームの中堅を務めて2位に入賞している。
勤務していた崎戸炭鉱は長崎県西彼杵郡の崎戸島にあった。昭和31年の崎戸町の人口は2万5千人を超え活況を呈していたが、昭和43年に崎戸炭鉱は閉山となる。現在は西海市の一部となっているが、平成17年の合併当時の人口は2千人ほどだった。
遠くない将来の閉山に備えてのことだろうか、森田は優勝の2年後の昭和34年に三菱鉱業を退職して大阪に移住した。昭和44年の長崎国体では大阪府の大将を務め、かつて暮らした長崎の地で見事に優勝を果たしている。あえて付け加えておくが、この時代の国体は地元優勝が当然という空気はなく“ガチ”の勝負で、さまざまなドラマが生まれた。
大阪では大阪日産の剣道師範、京都の佛教大学の剣道師範などを務め、範士八段となり昭和62年に69歳で逝去している。
森田の全日本選手権出場はこの第5回大会と翌年の第6回大会(ベスト16)のみだった。なお、2位の松尾はこの後4回の出場を重ねている。
警察の強豪選手が台頭も、決勝には残れず
過去4回で警察官の優勝は中村太郎(神奈川)の1回だけだが、警察での剣道復活から5年が経ち、警察勢の優位が明らかになりつつあった。ベスト4には警視庁の阿部三郎と大阪府警の園田政治が進出している。3位決定戦は阿部が園田から小手二本を奪って前年に続く3位となった。
この時38歳の阿部は第1回大会が2位、第2回大会が4位、第3回大会は不出場だが第4回、5回が3位。優勝こそなかったが初期の全日本大会で最もコンスタントに結果を残し、実力があった選手なのではないだろうか。全国警察剣道大会では戦後初となった昭和28年と30年に団体優勝メンバーとなっている。「読売新聞」(昭和32年11月18日付)は「今回もベスト4に残りながらまたまた優勝を逸した。余程大会運のない人なのであろう。しかしノビのある剣は印象的だった」と阿部を評している。
30歳の園田政治は昭和2年生まれ。昭和生まれで初の入賞者ということになる。熊本県玉名郡高瀬町(現玉名市)で小学校4年生から剣道を始め、玉名中学で5年間修業、卒業したのが昭和19年3月で陸軍士官学校に入るが翌年終戦、という経歴である。昭和22年に熊本県警に入り、柔道と逮捕術を学びながら時折有志で剣道もしていた。警察剣道が復活すると九州管区警察大会で個人優勝を果たし、大阪府警主席師範の越川秀之助に誘われ、昭和31年に大阪府警に移った。この昭和32年には初めて全国警察大会団体優勝を果たしている。昭和38年、39年には大将を務めて同大会連覇を果たすなどのべ5回の優勝を果たし、後に主席師範も務めた。
さらにベスト8で敗退した4人中3人が警察官だった。第3回の優勝者で前年の第4回も2位、当然優勝候補の筆頭だった中村太郎(35歳・神奈川)は松尾に敗れている。警視庁の長島末吉(32歳)は、第3回大会3位で4回目の出場、この前年には全国警察選手権大会で優勝を果たしていたが、今大会は園田に敗れた。賀来俊彦(32歳)は園田とともに大阪府警の主力選手で後に主席師範も務めたが、全日本選手権出場は意外なことにこの年が最初で最後。3回戦では警視庁の森島健男(35歳)を破ったが、準々決勝で森田に屈した。
ベスト8のもう1人は北海道の滝沢栄八(40歳)。戦前に武専(大日本武徳会武道専門学校)を卒業し、大阪などで剣道教師をしていた。戦後は北海道に戻り大会当時は会社役員という肩書きだったようだが、その後千歳市議会議員を長く務めた人物。剣道は範士八段となっている。「その豪放な上段は氏独特のものとして知らる」と『北海道剣道史』(長谷川吉次)にある。全日本選手権はこの年が初出場で、準々決勝で阿部に敗れた。その後2回出場している。
3回戦で敗れたベスト16の選手の中には前出の鈴木守治、森島健男の他、3回目の出場で過去2位と4位に入賞している植田一(香川・44歳)、第1回大会以来の出場となった谷口安則(福岡・36歳)らがいた。新聞各紙は1回戦から波乱、番狂わせが相次いだと評しているが、前年優勝の浅川春男(岐阜・38歳)が1回戦で金井正(埼玉)に敗退したのが目立つ程度。この前年の全日本東西対抗大会で怒涛の9人抜きを果たした中倉清(鹿児島)は2回戦で鈴木に敗れているが、すでに47歳になっていた。
2025年4月26日記