第6回全日本剣道選手権大会は昭和33年11月9日、東京体育館にて開催された。この年から下賜されることになった天皇杯を最初に手にしたのは鈴木守治(愛知・38歳)だった。
鈴木は過去の本大会5回の内4回出場、第1回大会で3位入賞を果たしている。第2回大会ではベスト8、第3回大会は出場を逃し第4回大会は1回戦敗退となるが、第5回大会でベスト16まで駒を進めた。
鈴木の勝ち上がりは以下の通り。
1回戦 鈴木 メコ─ 小沢武次郎(茨城)
2回戦 鈴木 ドメ─ 須藤角蔵(青森)
3回戦 鈴木 メメ─ 相田正志(大阪)
4回戦 鈴木 メ─ 金子誠(福岡)
準決勝 鈴木 メメ─コ 矢野太郎(兵庫)
決 勝 鈴木 メコ─ 中村太郎(神奈川)
1回戦の相手だった小沢(澤)武次郎(茨城)は46歳で、前年に続く2回目の出場。2年後にも48歳で出場している。後に範士九段となる小沢は、この当時水戸第一高校教員であり、名門道場である東武館で指導していた。
準々決勝で対戦した金子誠(福岡)は42歳、国士舘専門学校卒で福岡商業高校の教員を務めており、同校をこの年から玉竜旗3連覇に導くなど指導者として脂が乗り切っていた。本大会出場は第3回、第4回大会と今大会の計3回で、第3回と今大会でベスト8に入っている。
準決勝で対戦した矢野太郎(兵庫)は兵庫県警所属の35歳、3位決定戦で伊保清次(東京・38歳)を破り3位となる。第3回大会から7年連続で出場を果たし、この年は4回目の出場で初めて入賞を果たした。第11回大会で念願の王座に着く。
決勝の相手中村太郎(神奈川)は37歳(36歳?)、すでに第3回大会で優勝を果たし、第4回大会2位、第5回大会ベスト8と、この時期最もコンスタントに結果を残した名選手である。翌昭和34年の第7回大会で2回目の王座に着き初の複数回優勝者となった。
「稽古量、経験とも十分といわれていた中村だったが、なぜか堅くなって消極的で開始4分中村は面の狙いを左にかわされ小手をきめられ、8分にも右からの出小手をかわされて面をとられた。中村の敗因は消極戦法にあり実力の差はさほど認められなかった」
と「日刊スポーツ」(昭和33年11月10日付け)は報じている。その記事の中で鈴木はこんなコメントを残した。
「決勝で中村君と当たったが、彼とは学生時代学校大会で何度も試合をしており、手のうちはよくわかっていた。(中略)ストレートで勝てるとは思っていなかった。中村君はなんだか元気がなかったようだ」
平成4年、私が鈴木を取材したときには、この決勝は「生涯でただ一度、完全に無心になれた試合だった」と振り返っていた。
なお、鈴木は大正10年(1921)10月30日生まれなので(『全日本剣道連盟高段者指導者名鑑』1982による)正確には大会当時37歳だったと思われるが、全剣連の記録では38歳となっている。伊保清次は大正9年10月生まれで1歳上、中村太郎は大正11年12月生まれで1歳下である。

決勝、中村太郎から小手を奪い、優勝を決めた
これまで見た剣士の中で一番うまかった(惠土孝吉)
鈴木は戦前、東邦商業学校を卒業している。第1回全日本選手権大会で優勝した榊原正は同校の1年先輩で、ともにあらゆる全国大会で優勝を重ね、黄金時代を築いた。本大会当時は名古屋の昭和税務署に勤務していたが、昭和39年に会社を任されて、それからは剣道は完全に趣味と位置づけて実業家の道を歩む。全日本選手権はこの後昭和36年の第9回大会まで連続出場を続け、通算で8回出場した。
平成4年の取材時、東邦商業時代の指導者だった近藤利雄(範士八段)は、「師匠である自分が言うのもへんだが、すべての剣士の中で天分は日本一だと思う」、愛知県の後輩としてともに全日本選手権に出場したこともある惠土孝吉は、「僕がこれまで見た剣士の中では一番うまかったと思うのが鈴木先生です」と声を揃えた。
二人は共通して、相手の技をギリギリのところで返して技を出す鈴木の能力を絶賛していた。「何か人間わざでないような気がしたものです」とまで近藤は語っている。
惠土は鈴木の対上段の戦法に驚いたという。歩み足で構えを解いたような体勢で無造作に間合を詰め、相手が打ってくればすり上げて面、打ってこなければ小手を打っていくというものだ。
取材時、それを鈴木に尋ねると、撓競技時代に山口県の高島覚恵という上段の選手に負け続けた末、考えに考えた結果だという答えが返ってきた。
「叩かれて叩かれてハッと気がついた。間合なんです。ある線より近くに入ってしまえば、絶対に打たれない。近づきすぎると自分も打てませんが」
これには惠土も「なるほどとは思うが、とても僕にはできない」と脱帽している。おそらく第6回か第7回の全日本東西対抗大会でその戦いぶりを目にした渡辺敏雄(範士八段。全剣連初代事務局長、早稲田大学師範などを務める)も、「君はどうしてあんなふうに入っていけるんだ。おれにはできない」と鈴木に言ったそうだ。
鈴木については別記事“「人間わざではない」風のような剣を遣った鈴木守治さん”で詳しく書いた。平成20年に逝去している。
優勝の翌年、昭和34年に地元愛知県犬山市の屋外特設会場で開かれた第6回全日本東西対抗大会では、鈴木が真骨頂を見せた。東軍14将として出場し、西軍の11将鷹尾敏文(三重)から大将小島主(長崎)まで11人を抜く新記録を作ったのである。東軍は大将大野操一郎以下13人が不戦となった。

昭和34年、犬山市の特設会場で行われた第6回全日本東西対抗大会で11人を抜く
現役学生として初めて出場した知られざる名選手
4位となった伊保清次(東京)は2回目の出場。中村との準決勝は先に伊保が場外反則3回で一本を失う(当時の規則)と、中村も場外反則3回で一本一本となり、最後は中村が面を決めた。伊保は第2回大会に鳥取県から出場したが、優勝するためには東京で修業しなければと決意、この大会が初めての東京からの出場となった。この年から5回連続で出場し、4回目の第9回大会で念願の日本一に輝く。
ベスト8(準々決勝敗退)は、前出の金子のほか、東山健二(和歌山)、浦本徹誠(大阪)、田島善人(佐賀)。
東山健二は義足の範士九段・東山健之助の長男で、3回目の出場。この年は東京所属だった蓮井肇、神奈川の有馬宗明らを破った。父健之助は昭和15年の列車事故で左足を切断せざるを得なくなったが、義足で剣道を続け昭和43年に没するまで和歌山県の剣道を牽引した。この大会の翌年に九段となっている。実業家だった健二はこの後も本大会に登場し、計6回の出場を重ねた。
田島善人は37歳の刑務官。本大会出場は第3回大会とこの年だけだが、前回は4位、今回ベスト8という好成績を残している。この前年の第4回全日本東西対抗大会では伊保清次の10人抜きに次ぐ6人抜きを果たすなど、短い間ではあるが輝きを放った。後に八段になっている。
浦本徹誠は熊本県の済々黌出身でこの時点で大阪府警の中心選手だった。全国警察剣道大会で大阪府警は前年の昭和32年から2連覇を果たしており、浦本は両大会決勝で副将を務めていた。本大会は2年ぶり2回目の出場で、優勝候補にもその名があがった2年後には2位入賞を果たす。のべ4回の出場だった。
前年優勝の森田信尊(長崎)は3回戦で伊保に敗れている。

閉会式にて。右から鈴木、中村、矢野
特筆すべきは兵庫県代表の白井教雅だ。甲南大学3年に在学中で、当時の新聞記事に「大会史上初めて出場した学生剣士」と紹介されている。間違いないだろう。初戦で前年2位の松尾廉二(広島)を破り、2回戦で警視庁の谷崎安司(東京)に敗れた。
この翌年の第7回大会まで出場選手のほとんどは30代以上で、戦前戦中に剣道を始めた剣士の戦いだった。それは戦後昭和27年まで剣道ができなかったのだから当然である。21歳の桑原哲明(宮崎)が優勝した第8回大会でも、20代の出場選手が桑原を含めて2人だけだったことが分かっている。第3回大会に19歳で出場した川上岑志(当時は島根、学生ではない)の例はあるが、この第6回大会までに20代の剣士はほとんど出場していなかったと思われる。
第3回大会の記事ではその川上について、「本大会に出場した最初の戦後派剣士と呼んでもいいのかもしれない」と書いたが、川上は戦前戦中にまったく剣道をしていないわけではない。白井がいつ剣道を始めたか正確には分からないが、川上より2歳下で終戦時は7歳なので、戦後剣道が復活してから始めた可能性が非常に高い。本大会に初めて出場した正真正銘の戦後派剣士だろう。
白井はこの前年の昭和32年に第5回全日本学生選手権大会で優勝した実力のある剣士だった。その翌年の学生チャンピオンである惠土孝吉は白井について「学生にはほんとうにめずらしい、いまの八段審査にも合格するような剣道でした」と評している(『夢剣士自伝』)。昭和31年、といえば大学1年のはずだが、国体兵庫県チームの先鋒として優勝に貢献している。昭和34年には次鋒として再び国体優勝メンバーとなった。
卒業後は東レ(当時は東洋レーヨン)に進み、昭和36年には戸田忠男らとともに第4回全日本実業団大会で優勝を果たす。全日本選手権は昭和38年の第11回大会に前年優勝の戸田とともに滋賀代表として2回目の出場、2回戦で敗退した。時期は不明だがその後独立して実業家の道を歩んだこともあり、それが最後の出場となった。2回日本一になった戸田の陰に隠れた観もあり、知られざる名選手といえよう。
2026年3月10日記

