第1回全日本剣道選手権(1953) 「誰にも親しめる剣道として…空前の試み」

全日本選手権物語
第1回全日本選手権を制した榊原正(右から2人目)。左端は3位の鈴木守治

 記念すべき第1回全日本剣道選手権大会は昭和28年(1953)11月8日、東京の蔵前国技館で開催された。『剣道百年』(庄子宗光著・時事通信社)にはこの大会の意義が次のように記されている。

「本選手権大会こそ新発足後の剣道連盟が世に問う最大の大会であり、また将来の発展を卜する重大な試金石でもあった。しかも試合方法は、従来の剣道界の習慣であった専門家、非専門家の区別を廃し、選手の資格は年齢、段位、称号などに一切の制限を設けないで、各府県から厳重な予選を経て代表者を出し選手権者を決定するという画期的な構想によったものであった」

 かなり興奮気味に書いている。著者の庄子宗光は東京大学卒業後、報知新聞社勤務を経て昭和14年に当時の満州に渡り大日本武徳会満州本部常任理事を務めた。全日本剣道連盟設立とともに専務理事に就任している(のち第四代全剣連会長)。

 出場選手は人口300万人以下の府県は1名、600万人以下の道府県(北海道、愛知、大阪、兵庫、神奈川)は2名、600万以上の東京都は3名とし、それぞれ予選を経て53名が出場した。

 優勝を果たしたのは愛知県代表の榊原正(33歳)だった。

1回戦 榊原 メメ─メ 永尾初次(静岡)
2回戦 榊原 コメ─コ 矢内正一(福島)
3回戦 榊原 メメ─メ 青山憲好(山形)
4回戦 榊原 コ─ 中澤芳雄(広島)
準決勝 榊原 コメ─ 植田一(香川)
決 勝 榊原 コ─ 阿部三郎(東京)

 警視庁の阿部三郎と対戦した決勝では、終了間際に小手を決めて勝利を収めた。全6試合のうち二本連取で勝ったのは準決勝だけで、3試合は二本対一本での勝利、決勝を含む2試合が一本勝ちだった。元陸軍戸山学校教官という経歴を持つ上段の矢内正一(福島・44歳)との2回戦は延長4回を数えた。榊原は上段剣士が周囲おらず戦い方が分からなかったというが、足を使って素早く動き、なんとか面を決めた、と後年語っている。

 榊原は当時、名古屋刑務所勤務。『剣道百年』は「榊原は試合前は殆んど注目をひかなかったが、その出足の鋭さ、小手から面に渡るすばやさ、よく攻めよく守る堅実さなど稀に見る立派な選手で、本大会の優勝も決して偶然のものでない」と評している。大会前から優勝候補に挙げられるような存在ではなかった。本人は後年「剣道日本」の取材に「知らんということは強いことです」と語っている。他の出場選手についての情報もなく、欲もプレッシャーもなく戦えたという。

 3位となったのは、同じ愛知代表で名古屋昭和税務署に勤務していた鈴木守治(32歳)だった。戦前の昭和10年代に榊原が在籍した東邦商業学校は、当時多数あった全国大会で次々と優勝を果たし黄金時代を築いている。この東邦商業で榊原の1年後輩だったのが鈴木である。

 東邦商業で2人を指導した近藤利雄は、絶頂期の東邦商業の5人の選手の中で「榊原が一番下で、その上が鈴木」だったと惠土孝吉に語ったそうだ(『夢剣士自伝』)。一番強かった選手は戦死してしまったという。だが、近藤も、後に2人と何度も竹刀を交えた惠土も、鈴木は天才的な剣士であり、榊原は理にかなった正統派の剣士だったと証言している。近藤は榊原が優勝したという電報を受け取って、鈴木の間違いではないかと思ったという。愛知県の予選でも鈴木が1位、榊原が2位だった。

 名古屋刑務所の道場には刑務官だけでなく地域の人たちが加わって稽古をしており、鈴木もその道場を拠点としていた。同じ道場から優勝者と3位入賞者が生まれたことになる。榊原は第3回大会(昭和30年)まで3回連続で出場、第2回以降は上位に進めなかったが、昭和31年の第3回全日本東西対抗剣道大会では初めて行われた拔き勝負で10人抜きの記録を作り、実力を証明している。

のちの範士九段8名が出場

 2位となった阿部三郎(東京・34歳)は戦前に満鉄(南満州鉄道株式会社)社員となり、満鉄育成学校で指導者となっていた。戦後帰国して昭和23年3月に警視庁に入り剣道助教となる。意外なことにこの時点で警察での剣道は禁止されておらず、禁止は翌年4月のことだった。その後復活までの3年間はひそかに稽古を続けていたという。この翌年の第2回大会では4位、第4回、5回大会では連続で3位と入賞を続けた。優勝こそなかったが、大会初期にあって最も持続して力を発揮した剣士と言える。のちに警視庁の師範を務め範士九段となっている。

 当時は3位決定戦があり、鈴木守治に敗れた植田一(香川)が4位となっている。植田は戦前3回行われた昭和天覧試合に3回とも出場した大家である植田平太郎の三男で、戦前から各大会で活躍し高松高等商業学校で指導者となっていたベテラン。大会当時40歳となっていた。やはりのち範士九段となる。

 出場選手全員の年齢が分かる資料はないが、全日本剣道連盟が発足してまだ1年、それ以前から稽古を始めていたところはあり、昭和25年には全日本撓(しない)競技連盟が発足していたとはいえ、多くは戦前戦中に剣道を始めていた30代以上の選手だった。全日本選手権大会優勝者はこの第1回から第7回大会まで30代である。

 戦前の各大会で華々しい活躍を見せた中倉清(鹿児島)は鹿児島県警察巡査部長となったばかりだったが、すでに43歳。この中倉が第1回大会では優勝候補と目されていた。最年長は長野の岡村貞雄で56歳だった。

 しかし第1回大会に20代の選手が皆無だったわけではない。中倉を2回戦で破った山口の野間和俊は25歳で、出場選手中最年少だった。終戦の年に17歳ということになるが、戦火が激しくなる前に剣道を始めていたのか、それとも戦後に20歳を過ぎて撓競技から始めたのかは分からない。準々決勝で植田に敗れた福岡の大浦芳彦は28歳だったが、大正14年生まれので小学校5年のとき、つまり昭和10年ごろに剣道を始めている。ベスト16の長島末吉(東京・警視庁)は新聞記事では26歳となっているが、大正14年1月生まれなので、28歳が正しいと思われる。やはり戦前からの経験があっただろう。

 初めての大会であり大会前の優勝者予想も難しかったと思われるが、報知新聞(昭和28年11月8日付)に大会予想記事が掲載されていた。ブロックごとに有力選手と実績をあげているが、中倉が「キャリアからいってもわざからみてもまず右に出るものはあるまい」としている。その他には以下の選手があげられている。

長島末吉(26歳・警視庁・東京・警察官関東選手権優勝)
中尾巌(38歳・神戸警察・大阪・国体しない競技個人優勝)
菊池伝(35歳・原田組社員・神奈川)
山本藤吉(41歳・西宮市警・兵庫)
阿部三郎(34歳・警視庁・東京・第3回天覧試合出場)
谷口安則(32歳・教員・福岡)
吉岡真吾(42歳・会社役員・第3回天覧試合準決勝進出)
長井武雄(38歳・妙義出版社社長・東京)
岸本?(38歳・大阪警視庁・大阪)
静利弘(36歳・尼崎市警・兵庫)
矢内正一(44歳・会社員・福島・元陸軍戸山学校教官)

 長井(東京)と岸本(大阪)は実際には出場しておらず、直前で変更になったものと思われる。上位に入った選手では阿部は優勝候補の一人だったが、榊原、鈴木、植田らはそこまで注目されていなかったようだ。

 中倉、植田、阿部、谷口、長島に加え、石原忠美(岡山)、市川彦太郎(群馬)、鷹尾敏文(三重)ら、のちに範士九段となる剣士がこの大会には多く出場していた。また、後に全剣連第五代会長となる大島功が東京から出場していることも特筆される(上記の長井の枠に入っており、代替出場だったのだろうか)。

 なお、当時は十段制がまだ整備されておらず、初段から五段までの上に錬士、教士、範士という制度になっており、戦前の大日本武徳会から授与された段位称号がそのまま全剣連に切り替えられていた。出場選手の中で上記の大島は段位、称号ともに所持していない。これは大会史上でもただ1人だろう。五段は4名で、それ以外は錬士、教士の称号を持っていた。

試合はリングの中で、審判員は手で判定

 会場となった蔵前国技館は、明治42年(1992)に建てられた両国国技館が戦後GHQにより接収されて相撲興行ができなくなったため、日本相撲協会が昭和24年(1949)10月より建設を始めたもので、翌年には仮設のまま開館して興行を始めたが、最終的に完成したのは昭和29年(1954年)9月だった。この第1回大会当時はまだ仮設だったことになるが、どのような状態だったかは不明である。

 この大会決勝の映像はYoutubeの全日本剣道連盟のチャンネルにアップされている。客席や会場の様子は暗くてよく分からない。『剣道百年』と『財団法人全日本剣道連盟三十年史』は、観客が1万人を超えたと書いているが、大会を後援した読売新聞(昭和28年11月9日付)は、「非常な人気をよんで往年の剣客をはじめ女性、子供をまじえる約八千の観衆がつめかけ」としている。

 映像を見ると、現在の試合とは大きく様相が違うことに気づく。四隅にポールを立てロープを張った「リング」で試合をしている。また、審判員は3人だが、旗を持たず、一本の判定は手を上げて行っている。

 試合規則の制定は昭和27年10月に全日本剣道連盟が発足すると最優先の課題として取り組んだ事業で、全日本剣道連盟試合規程、審判規程が昭和28年3月には施行されている。

 この規程では審判員が表審判、裏審判、陪審の3名となっている点が現在とは大きく違っている。表審判が試合全般の運営に関する権限を有するが、裏審判も有効打突(当時の用語では有効撃突)に関しては表審判と同等の権限があった。「表審判と裏審判の判断が違った場合は陪審に図った上で判定を決定する」ということになっていた。「陪審は積極的に判断を表示しないが、表審判に意見を具申する事が出来る」となっている。3人審判員が立っているが、陪審はすぐには手を上げなかったということだろうか。

 この点については翌年の昭和29年4月に早くも規程が改正され「主審一名、副審二名として有効打突の表示に関しては三者同等の権限を有する」という現在と同じ形式になった。

 審判旗を使うことは、昭和35年8月の改正規程で明文化されている。しかし、少なくとも昭和32年の第5回全日本選手権大会の写真では、明らかに審判員が審判旗を持っている。いつから導入されたのかは調査が必要だ。

 リングについては、読売新聞の記事で、場外に出た場合は減点すべきだという意見もあったことが紹介されているので、試合場の区画線はあって、余地を設けてリングが張られていたものと思われる。

 全52試合中、二本対〇本で決まったのが28試合、二本対一本が15試合で、一本勝ちはわずか10試合しかなかった。延長となった試合の数は分からないが、この点も現在の試合とは大きく違っている。

『剣道百年』の中で、大会当時の全剣連専務理事だった庄子宗光は次のように熱く大会の成果を記している。

「従来剣道は、道場という堅い殻の中にとじ籠って、街頭に進出することは殆ど稀であった。従って剣道は剣道をする人だけの剣道であった。ところが今回、国技館という大衆の真只中にとび出し、しかも入場料をとって選手権大会を実施したということは、剣道界にとってはまさに空前の試みであった。全日本剣道連盟はその創立以来、将来の剣道は従来のような特定の人の間の剣道だけではなく、誰にも親しめる剣道として広く一般大衆の中に融けこみ、その理解と支持を得なければ発展は期待することができないとの固い信念を抱き、あらゆる事業計画もその方向に向って推し進めつつあった。(中略)本大会が一万人を超える観衆の中で整然と進められたことは、連盟首脳部のこの信念が一応裏付けされる結果となったのである」

優勝=榊原正(愛知・33歳)
2位=阿部三郎(東京・34歳)
3位=鈴木守治(愛知・32歳)
4位=植田一(香川・40歳)
ベスト8=中澤芳雄(広島・32歳)、大浦芳彦(福岡・28歳)、鷹尾敏文(三重・38歳)、中尾巌(大阪・38歳)

2024年9月2日記

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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