第14回全日本剣道選手権大会(1961)、上段の名手・千葉仁が22歳で頂点に

全日本選手権物語

 第14回全日本剣道選手権大会は昭和41年(1966)12月4日に開催され、東京都代表、警視庁所属、22歳の千葉仁(まさし)が初出場で初優勝を飾った。千葉はその後2度の優勝を重ねて史上初の3回優勝を果たし、上段ブームの象徴として昭和40年代の剣道界を駆け抜けた。

 千葉の勝ち上がりは以下の通りである。

1回戦 千葉 メコ─ 松永光司(長崎)
2回戦 千葉 ココ─ 勝木豊成(福井)
3回戦 千葉 メメ─ 松原輝幸(福岡)
4回戦 千葉 メ─ 有満政明(鹿児島)
準決勝 千葉 メド─ 田中信義(島根)
決 勝 千葉 コメ─ 村瀬隆平(岐阜)

 26歳の村瀬との決勝は、1分過ぎに千葉が面を先取。しかし3分過ぎに、三度目の場外反則で一本を返された(当時は場外反則3回で相手の一本)。しかし3度目の場外は「前に出れば村瀬五段に逆胴でやられていたでしょう。ヘンに自信を持たれてはと自分から場外に出た」(「東京新聞」掲載のコメント)と冷静な計算もしていた。「タイになってかえって気が楽になった」(「讀賣新聞」掲載のコメント)とも語っている。そして、

「つばぜりあいが続いたあと、中央で再び千葉は上段から小手をねらった。村瀬はこれをつばでこらえ、メンをねらってとび込んだ。千葉が一歩退き、村瀬のからだがわずかに流れたとき、千葉のメンがきまっていた。相打ちかと思われた一瞬だったが、わずかに千葉の方が正確だった」(報知新聞)

 試合時間は5分10秒と記録されている。

千葉(左)─村瀬の決勝

高野佐三郎の高弟乳井義博に鍛えられた上段

 昭和19年4月、宮城県中田町(現在は登米市)で生まれた千葉は、幼少の頃からチャンバラごっこが好きで、中学に進むと最初は父に反対されたが剣道部に入ったという。小牛田農林高校では乳井義博(燿)と高橋要の指導を受けて頭角を現し、2年生で国体優勝、インターハイ団体4位のメンバーとなり、3年生になるとインターハイ団体、個人ともに全国3位となっている。卒業後、警視庁に就職した。

 当時の新聞記事では、上段をとったのは警視庁に入って3年目に右足のかかとに魚の目ができて踏み込むたびに痛みを感じるようになり、手術をして除去しても痛みが残ったため、鶴海岩夫監督の勧めでとりあえず魚の目が治るまで左足で踏み込む上段をとることにした、と紹介されているが、後に「剣道日本」(1988年9月号)では、高校時代から経験があったことを明かしている。

 もともと上段をとりたくて、高校3年の春ごろから、稽古中、教師である高橋がいないときに試していた。やがて高橋の知るところとなり、高野佐三郎の高弟で上段も二刀も使いこなした乳井師範の指導を受けるようになった。高橋も珍しい右上段の使い手だった。だが、高校時代は基本である中段を磨くことが大切と考えた高橋は、「一本を先取した後なら上段を使ってよい」と指導していたので、あまり試合で上段を遣う機会がなかったのだという。

 この大会前、千葉はさほど注目されておらず、「伏兵千葉が優勝」と見出しをつけて結果を報じた新聞もあった。まだ警視庁に入って4年目で22歳と若く、この時期警視庁が低迷期にあり全国警察大会(団体)では昭和37年の優勝を最後に翌38年から44年までの7年間、決勝に進むこともできなかったため、注目を浴びる舞台に立っていなかった。また東京予選では国士舘大学生の馬場欽司に敗れ2位だった。

 私は1990年代半ば頃から「剣道日本」の取材で何度も千葉に接することがあったが、実に明朗快活で気さくな好人物だった。「剣道日本」での連載をお願いしたことがあって本人の快諾を得ていたが、警視庁からは連載という形では許可が下りなかったのを今でも残念に思う。

 明治村剣道大会で優勝するなど、勝負師らしさは後年も健在だった。逝去されたのは2016年9月28日、享年72歳。訃報記事に私はこう書いた。

「これは記者の勝手な見方かもしれないが、剣の深い理合に精通した達人というよりも、剣道の世界を代表する偉大な、そして気さくな『チャンピオン』という印象があった」

 3か月後の12月16日に、ともに上段ブームの象徴であった戸田忠男が77歳で没している。

大学から剣道を始めた剣士が2位

 2位となった村瀬隆平は異色の剣士である。小学生の夏休みに木刀の振り方を教わったことがあっただけで、岐阜大学入学後に初心者として剣道を始めた。大学の監督・師範は東京高等師範学校卒の三橋秀三で、体育の主任教授でもあった。入学は昭和34年で剣道復活から7年が経っていたが、同級生の剣道部員16名のうち15人が無段だったという。先輩後輩の上下関係も厳しくなく、長所を伸ばす三橋の指導で力をつけ、昭和38年に卒業後は教員となる。昭和40年の岐阜国体教員の部で優勝し、翌年の全日本選手権に初出場を果たした。剣道を始めてわずか7年で全日本選手権決勝の舞台を踏んだことになる。このあと、11年後の第25回大会に2回目の出場を果たした。

 千葉が2回戦で対戦した勝木豊成もやや異色の23歳。東京経済大学を卒業し、前年初出場ながら、すでに2度優勝していた戸田忠男を破りベスト8に進んでいた。福井工業大学の監督を長く務め、メンタルトレーニングに関する著書もある。3回戦で対戦した松原輝幸は法政大学時代から活躍した選手で、後に八段戦の明治村剣道大会で優勝している。このとき30歳で初出場だった。ちなみに当時松原は上段をとっており、この試合は相上段の戦いだった。

 4回戦の有満政明(30歳)は鹿児島県警に所属し、当時30歳を境に部門が分かれていた全国警察剣道選手権大会の30歳以上の部で、この年から3連覇を果たしている。千葉は有満との試合が最も苦戦したと振り返っており、この試合だけが延長となっている。

 準決勝で対戦した田中信義(島根)は43歳。30代以上でただ一人ベスト4に進んだ。詳しい経歴は不明だが当時は中国電力に勤務する会社員で、後年は島根県剣道連盟会長を務めた。もう一人の3位、西出功(26歳)は京都府警の警察官。前年に続き2回目の出場で、この後は第19回大会に出場。選手、指導者として活躍を続け令和6年現在は京都府剣道連盟副会長を務めている。

 ベスト8で敗退したのは前述の有満のほか、警視庁で千葉の先輩である前年優勝の西山泰弘(30歳・東京)、このとき43歳で2年後に優勝を果たす山崎正平(新潟)、そして幸野実(26歳・神奈川)である。西山は大会前の予想記事では本命に挙げられていたが、準決勝で村瀬に敗れた。

 大会出場者56名のうち、初出場が30名と過半数を占めた。年齢別内訳は、10代1名、20代34名、30代10名、40代11名。6年前の第8回大会でわずか2名だった20代が半数以上を占めるようになった。ベスト8は20代4人、30代2人、40代2人。桑原哲明が最年少記録の21歳で優勝した第8回大会から、山崎正平が最年長記録の45歳で優勝する第16回大会までは、20代と40代の王者がほぼ交互に現れながら、この大会の世代交代が行われた時期である。

 学生が2名出場している。前出の国士舘大学の馬場欽司は2週間前に行われた全日本学生剣道優勝大会で大将を務め、優勝を果たしていた。続天はその後早稲田大学の主将を務めるが、この当時はまだ2年生で三段だった。馬場は3回戦に進みベスト16、続は2回戦で敗退している。東京予選では馬場が千葉を破って1位、続が3位だった。学生の出場は現在分かっている限りでは第9回大会(昭和36年)の惠土孝吉(中京大学)が最初だったと思われる。続の他に稲葉久男(熊本)が三段で出場しているが、2人のどちらかが10代だったのだろう。

 職業別では警察官が37名、教員6名、会社員と公務員、商業が3名ずつ、法務官、学生が2名ずつ。すでに警察官が過半数となっていた。

 なお、大会審判員12名が写った写真があるが、全員が上下白の稽古着袴で揃えている。これはいつからいつまで続いたことかは分からない。

大会の模様。どの対戦かは不明。千葉を応援する垂れ幕が目立つ

「あてっこ剣道」という批判も誕生

 さて、大会14回目に至って、出場選手の技術を批判する声がメディアでは見られるようになった。専門誌である「武道評論」1967年1月号では、大会審判長の佐藤貞雄(当時範士八段)が次のように述べている。

「今回は回を重ねること十四回、第一回以来平均年齢、段ともに最も若かった。
したがって、試合の内容も剣道の妙味を感じさせるものが乏しかったのではないかと思う。
(中略)年の若い動きの早いものでないと(予選を)勝抜けなかったのかも知れないが、ヴェテラン選手の回を追うごとに少くなってゆくことは淋しい。若い年齢層に変遷してゆくこと自体は誠に結構なことであるが、ただ単に所謂あてっこの剣道のみが剣道の総べてであるというような感じを一般に与えることはよいものであろうか」

 「あてっこ剣道」という言葉がメディアに登場したのが初めてかどうかは分からないが、以後、盛んに使われるようになっていく。また、佐藤は延長を何度も重ねる試合がいくつかあったことを指摘し、「この点についても観客が厭きるのではなかろうか。瞬間にして決る剣道の試合に時間がこんなに長くかかることは考えねばならないと思う」とも述べている。これは的を射た指摘であり、令和の現在もまったく同じ指摘が成り立つ。

 さらに、「北斗星」という筆名でおそらく編集部の記者が次のように書いている。

「高段者のないせいか、理合に充ちた試合が少なく、タイミングだけで終止したように思える。上段を取る選手が大部いたが、敵をグット押えてヂリヂリと攻めるのが見られず、フラフラと自信のないところが目立ちかつての福岡の大浦七段のような上段の位は見られず残念」
「全日本選手権大会では日本一の剣士が選ばれることになるが、実は真の日本一かどうか疑わざるを得ない。かつては選手にもっとりっぱな剣士が出場したように記憶する。かつての選手の方はいまではみな師範格となって鎮座ましまし、弟子を選出して事足れりとしておられるのだろうか」

 さらに選手の年齢、段位などの内訳を示し、「大きな欠点は選手選出の方法である」としている。戦前までの専門家・非専門家の枠を撤廃して予選を行う、画期的なオープン大会として始まった全日本選手権の趣旨を否定するような考え方が、早くも14回目で芽生えていたことになる。18年後の昭和59年から全日本選手権出場者は六段以上という資格制限が設けられるが、それに通じる見方である。

 一方「讀賣新聞」は大会前の予想記事で、(深沢)という記者が次のように書いた。

「予選は5分間三本勝負、準決勝以上は10分間三本勝負で、きめ手のない場合は、勝敗がつくまで延長するので、柔道のように観衆が判断に苦しむような判定勝ちはなく、この点に、見る武道としての剣道が、日を追うごとに盛大となっている原因がありそうだ」

 剣道がより広い層にアピールしつつあるという指摘だが、大会結果を報じた12月5日付の記事では同じ深沢記者がこう書いている。

「結局、この大会は多数の若手がスピードにまかせ、ところどころでベテランを食ったかたちとなった。これは剣道界そのものがスピードのある打ち合いにかたよってきている現われとみられ“わざ”を中心とする剣道の本質からいえばもの足りなかった」

 体を使って競い合う以上、若くスピードがある方が勝つのは自然の流れであり避けようのない変化だったと思うが、戦前派の剣道を知る人たちにとって、剣道の質の変化が感じられるようになったことは確かであるようだ。一方で少年剣道人口は増加の一途を辿っており、ピークを迎えるのはまだ10年も先である。

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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