第2回全日本剣道選手権大会(1954)、西鉄勤務の伏兵・小西雄一郎が警察の猛者たちを蹴散らして優勝

全日本選手権物語

 第2回全日本剣道選手権大会は昭和29年(1954)10月10日、第1回大会から場所を移して東京両国のメモリアル・ホールで開催された。前年は昭和24年に新しく建てられた蔵前国技館で行われたが、第2回の会場は元の両国国技館である。会場については後述する。

 この大会を制したのは、福岡の小西雄一郎(32歳)だった。西日本鉄道株式会社(西鉄)勤務で、当時は博多駅前のバス発着所の所長をしていた。上位には警察の主力選手や指導者クラスが多く進出したが、その中を無名といっていい初出場の会社員、それも身長155cm の小兵が頂点に駆け上がった。

1回戦 小西 メド─メ 下井久(三重)
2回戦 小西 メメ─メ 和田政清(大阪)
3回戦 小西 コ─ 大西友次(島根)
4回戦 小西 コメ─メ 鈴木守治(愛知)
準決勝 小西 ドド─ド 阿部三郎(東京)
決 勝 小西 ドコ─メ 中尾巌(兵庫)

 和田政清は武専(大日本武徳会武道専門学校)卒で大阪府警所属、大西友次(38歳)も武専卒で戦前は教員だったがこの当時は島根県警剣道師範、公務員の鈴木守治(33歳)は前年に3位入賞を果たした実力者、阿部三郎(35歳)は警視庁の主力選手、中尾巌(38歳)は兵庫県警の指導者である。

 並み居る猛者を抑えての小西の優勝はかなりの驚きをもって受け止められたようだ。『剣道百年』(庄子宗光)は以下のように評している。

「剣道界に顔を出して間もない彼が全日本の覇権を握ろうなどとは、戦前は誰も夢想だにしなかった。一回戦で破った三重の下井錬士を除き、彼の戦った相手は和田、大西、鈴木、阿部、中尾と、いずれも錚々たる一流の使い手ばかりである。剣道の特別の専門的教育を受けた経験のない学生出身の彼が、この晴れの選手権大会においてこれらの強豪を一蹴して優勝したことは賞賛に値するものである」

 決勝で対戦した中尾は早稲田大学在学中から鋭い出足と早い変化で知られ、剣道復活にあたって兵庫県警(当初は神戸市警)から指導者としてスカウトされた。上段を遣うこともあり、この大会では伊保清次(鳥取・34歳)との準々決勝で相上段の戦いに勝利している。

 決勝は以下のような展開となった。
「両選手しばらく呼吸をはかって後、中尾得意の速攻で打ちまくり、小西に攻撃の余裕を与えず大きく横面にのびれば、見事にきまって一本先取。小西やや攻勢に出て、中尾の出鼻へ鮮やかに小手を打ち込んで一本一本。(中略)勝敗決せず延長に入る。互にしかけずチャンスをうかがううち、延長後一分二十七秒、小西が小手を見せて胴に変れば、主審はなしと判定したるも副審二人ありと判定して、遂に新人小西の勝となった」(『剣道百年』)

 小西はのちに以下のように振り返っている。
「『一本一本勝負』の後、十分間の試合時間が切れ、延長すること二度、追いつ追われつ一進一退、その一寸の隙にいつしか夢中で胴に飛び込み、と同時にどっと歓声が上り審判の「胴あり」の声で、その瞬間優勝したことが分かりました。(中略)優勝できたことは幸運に外なりません。居並ぶ強豪揃いの中で稽古量に於いても、又体力的に見ても勝てる相手ではなかったと思います」(「剣道時代」1978年2月号臨時増刊)

 ちなみにこの記事は昭和53年に「第25回全日本選手権大会特集号」として出版された、剣道時代の臨時増刊号に掲載されている。そんな時代もあったのかと感慨深い(剣道時代の洒落ではなく)。

小西が出小手を決め、一本一本とする

玉竜旗大会25周年記念の個人戦で優勝

 小西雄一郎は和歌山県生まれで、5歳の時に福岡県に移った。福岡市の住吉少年剣道会で、末永時一に剣道の手ほどきを受けた。会社員だった末永が広場に縄を張り巡らして教えていたという。この会では小西だけでなく第9回大会を制する伊保清次も学んでいた。伊保が大正9年生まれで小西の2歳上なので、同時期に所属していただろう。また、範士九段となる佐伯太郎(大正5年生まれ)もこの会出身である。佐伯が通った当時、少年に剣道を教える道場は九州でも二、三しかなかったという。

 福岡商業学校に進み池田呑の指導を受ける。少年剣道の名門・福岡如水館館長の池田健二の父である。昭和15年、九州学生武道大会(現在の玉竜旗剣道大会)では25回大会を記念して、各校の大将による「大将個人優勝試合」を行ったが、小西は済々黌の石原(当時は久保田)勝利との決勝に勝って優勝している。その結果は福岡日々新聞(現在の西日本新聞)の号外で、近衛文麿内閣の組閣を伝える記事の横に「武道大会優勝」と報じられた。

 私は平成7年、当時73歳の小西に話を聞いている。戦後50年に当たる年で「戦争と剣道」という特集記事の取材だった。玉竜旗個人優勝の昭和15年から、全日本選手権優勝の昭和29年まで、どんな人生を歩んでいたのかを聞いた。

 昭和17年に西南学院高等学部(現・西南学院大学)に入学、翌年12月1日に学徒出陣で入隊するまで1年半ほどの間に、剣道の大会も何度かはあったというが、やがて正課でも部活動でも竹刀が三尺六寸になり、銃剣道の授業も始まった。昭和19年5月から幹部候補生として満州に渡り、剣道の学科では区隊長に変わって指導を任された。軍では銃剣術との異種白兵戦や、野外での3人対1人の試合もあった。内地帰還となり下関で終戦を迎える。

 昭和21年10月に西鉄に就職。昭和22~23年頃に占領軍の調達庁から剣道を見せてほしいという依頼があり、三角卯三郎(のち範士九段)を中心に10名ほどで何度か剣道を披露した。土産にビールをもらったという。

 昭和25年に西鉄では有志で剣道部を作り、ダンスホールのようなところでこっそりと稽古を始めた。撓競技は経験していないという。復活後は西日本各県対抗試合で団体、個人とも優勝するなど活躍している。

 全日本選手権初出場当時は2、3日に一度、仕事をやりくりしながら会社の剣道部で稽古するほか、時おり福岡武徳殿に足を運び、三角や松井松次郎(のち範士九段)などの大家の指導を受けた。優勝した試合をこんなふうに振り返っていた。
「生まれて初めて飛行機に乗って東京へ行きました。何も考えず一所懸命やっただけです。阿部三郎先生や大阪府警の和田政清先生、決勝は中尾巌先生に勝っていますが、後から皆さんの剣歴を知ってびっくりしたものです」(「剣道日本」1995年10月号)

 全日本選手権には翌年の第3回大会に出場したのが最後で、優勝した中村太郎に2回戦で敗れている。この後も西鉄に勤務したが、昭和30年から43年まで母校西南学院大学の師範を務めている。平成13年逝去。

早くも警察関係者が上位を席巻

 2位の中尾は神戸市警から指導者として誘われ、昭和27年に正式に就任した。「当時、(神戸市警に)武専というのがありまして、今の特練みたいなものですが、二十四、五人いました」(「剣道時代」連載「私の剣道修業」)。

 当時は自治体警察で、昭和29年の警察法改正で県警察となるのだが、神戸市など全国五都市の警察は昭和30年まで自治体警察だったそうだ。中尾の記憶では「三十一年に警察が一緒になって鶴丸(寿一)などが入ってきた」。前年の第1回大会には大阪から出場しベスト8に駒を進めている。

 ベスト8に入った山本藤市も兵庫県警所属、波華商業学校卒で当時42歳なので、やはり指導的立場だったと思われる。そのほか、第11回大会で優勝する矢野太郎、第15回大会で優勝する堀田國弘ら、兵庫県警には強豪選手が揃っていた。神戸市警だけで「武専」に24~25人いたというのなら、兵庫県警になったときには一体何人いたのだろうか。戦後剣道復活後、昭和28年に始まる全国警察剣道大会は、警視庁、大阪府警が優勝争いの中心となったが、兵庫県警も強豪選手をスカウトするなどしていち早く強化に取り組んでおり、警視庁や大阪府警と肩を並べる陣容だったのではないだろうか。

 3位、4位も警察の大物である。3位は前年に鹿児島市警の剣道師範に就任していた中倉清(44歳)、4位は前年2位の阿部三郎(東京・35歳)。

 戦前に数々の大会を制した中倉は当時最も名を知られた剣士だったのだろう、44歳にして優勝候補に挙げられている。しかし、この頃は戦後戻った故郷で農作業中に左足を骨折したことによる障害が残っていた。第1回大会は2回戦で敗退している。それでもこの年は準決勝まで進出し、同年に始まった全日本東西対抗大会ではこの後大会史上に残る活躍を見せる。現代的な感覚では、最も強いであろう年代が戦争とその後の空白に当たってしまった不運と考えてしまうが、もしかすると大怪我さえなければこの大会でも優勝できる力があったのかも知れない。

 阿部は脂の乗り切った年齢であり、第1回大会2位、この年が4位、第4回、第5回大会が3位と出場するごとに入賞を果たしている。この時期、実力的にはNo.1だったのではないだろうか。しかし勝運には恵まれなかった。

 第10回大会までに警察官が優勝したのは中村太郎の2回だけだが、改めて振り返ってみると、すでにこの第2回大会において警察勢が優位にあったことがわかる。

 なお、小西の試合を見ると、一本勝ちが1試合あるだけで他の試合はすべて二本対一本の勝負になっている。この大会では全55試合で120本の決まり技が生まれており、これは大会史上最多の数である。近年は63試合で80本から90本程度で、かつては63試合で70本から60本台ということもあった。今とはかなり試合の様相が違ったであろう。決まり技の数についてはいずれ別記事で検証したい。

剣道とゆかりの深い両国国技館

 ベスト8で敗退した4人は前出の兵庫県警の山本、前年3位の鈴木守治のほか、武専卒で後の範士九段西川源内(38歳)、第9回大会で優勝する伊保清次(34歳)とビッグネームが並んでいる。伊保は鳥取県からの出場だった。

 阿部と並ぶ警視庁の中軸だった森島健男(31歳)は、3回戦で一本一本から延長3回の末、中倉に敗れている。前年優勝の榊原正(愛知・34歳)は2回戦で阿部と対戦、前年の決勝戦の再現となるが、阿部が面二本を奪い雪辱を果たした。

 会場の両国国技館について付記しておきたい。最初の国技館は明治42年(1909)年、両国の回向院境内に建設され、13,000人を収容した。大正6年に火事で、大正12年には関東大震災で焼失し再建されている。第二次世界大戦でも被災したが、戦後GHQにより接収され、メモリアル・ホールに改称、改装された。

 昭和21年に一度はメモリアル・ホールで相撲の場所も開催されたが、その後は接収解除まで相撲での使用が許可されなかった。一方でプロボクシングやプロレス、全日本柔道選手権大会の開催は認められている。そのため日本相撲協会は蔵前に新たな国技館の建設を決め、まだ仮設の状態だったが昭和25年1月場所から蔵前国技館で大相撲を開催した。昭和28年の第1回全日本剣道選手権大会はこの会場で行われた。

 昭和27年4月にメモリアル・ホールの接収が解除されたが、すでに蔵前国技館が開かれていたので、日本相撲協会は「国際スタジアム」という会社に売却する。国際スタジアムはローラースケートリンクとして、あるいはプロボクシングやプロレスリングの会場として利用された。そのため、この第2回大会の時はメモリアル・ホール、翌年11月に行われた第3回大会の会場は同じ建物だが国際スタジアムとなっている。つまり第2回大会と第3回大会の間のどこかの時点で売却されたということになる。

 その後この建物は昭和33年に日本大学に譲渡され、昭和58年に解体されるまで日大講堂としてボクシングやレスリング、コンサートなどに使用された。全日本実業団剣道大会、関東学生剣道優勝大会など、日本武道館ができるまでは剣道の大会にも使われており、剣道とゆかりの深い建物だった。

 両国、蔵前の両国技館で行われた全日本選手権の写真はほとんど目にしたことがなかったが、剣道日本の倉庫にあった上の文中で紹介した写真を、明るくして、AIを使ってカラー化してみた。旧両国国技館での剣道観戦の様子がよく分かる。ちょっと感動的である。

選手の部分は白く飛んでしまっているが、観客席の様子がよく分かる

2025年5月10日記

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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