昭和38年(1963)12月1日に開催された第11回全日本選手権大会を制したのは、兵庫の矢野太郎(40歳)だった。警察官として第3回、第7回の中村太郎(神奈川)に続く2人目の優勝者である。
矢野は第3回大会から第9回大会まで7年連続でこの大会に出場。1年おいてこの年が8回目の挑戦だった。本人は新聞の取材に「7回目」と話していたようだが、『全日本剣道連盟三十年史』の記録をたどってみると8回目である。第6回大会では準決勝まで勝ち進み、優勝した鈴木守治(愛知)に敗れるも、3位決定戦で伊保清次(東京)を破っている。そのほかは第4回大会でベスト16(3回戦敗退)、2回戦敗退が4回。1回戦敗退は1回だけだった。
当日の勝ち上がりは以下の通りだ。
1回戦 矢野 メ─ 佐野義二(千葉)
2回戦 矢野 メメ─ 宮原清彦(長崎)
3回戦 矢野 メ─ 磯 貞彦(栃木)
4回戦 矢野 メ─ 青木彦人(大分)
準決勝 矢野 メメ─ 小林三留(大阪)
決 勝 矢野 コメ─コ 戸田忠男(滋賀)
この日は若くしてすでに実績もある昇り調子の警察官との戦いが続いた。
2回戦で対戦した宮原清彦はこの年の全国警察選手権大会で2位となった選手。その大会決勝で宮原を破り警察チャンピオンとなったのが、矢野が4回戦で戦った青木彦人で、大分県警所属の26歳。初出場ながら注目されていた。準決勝で対戦した大阪府警の小林三留も同じく26歳で初出場。警察選手権大会では宮原に準決勝で敗れ4位だったが、団体戦(全国警察大会)では大阪府警の五将として優勝という実績の持ち主である。
3回戦で戦った磯貞彦も警察官。1回戦の佐野義二は不明だ。
それまで中段で戦った矢野が決勝では上段に構え、相上段の戦いとなった。試合開始後間もなく矢野が面を先取。しばらくして戸田が小手を決めて一本一本となると、矢野は中段に下ろした。数合ののち、戸田が上段から面に出ようと色を見せたところを矢野が小手にとらえ、勝敗決した。
当時刊行されていた雑誌「武道評論」(1964年1月号)で、小沢丘(のち範士九段)は、決勝は好試合だったとしながらも、とくに戸田の方を賞賛している。
「近年にない緊迫した好試合であった。弱冠二十四歳にして優勝、準優勝と連続して輝かしい成績をあげた戸田選手を称賛する拍手はしばしなりやまなかった」
第1回目の全国警察選手権チャンピオン
矢野太郎は兵庫県出身、正確な生年月日がわからないが、優勝時の年齢から逆算すると大正12年(1923)生まれ(12月2日以降が誕生日なら前年)ということになる。竜野商業学校1年のときから剣道を始め、5年生の時に明治神宮体育大会に兵庫県代表として出場している。同校を卒業後、鹿島建設の子会社勤務を経て軍隊に入り、2年ほどで終戦を迎えた。復員後は神戸での会社員生活を経て、昭和26年に神戸市警察に入る。
戦後、警察機構が全面的に見直されて地方分権的な組織に改められ、人口5000人以上の市町村ごとに自治体警察が設置された。しかし市町村の負担が重く昭和26年から自治体警察を廃止して国家地方警察の管轄となることが認められ、昭和29年には全面的に国家地方警察に再編されることが決まる。翌昭和30年には最後まで残っていた大阪市警など5大市警察も廃止された。
昭和28年、警察での剣道も解禁され、戦後初めて全国警察剣道大会が行われた。その第1回の全国警察選手権(個人戦)で矢野は優勝を果たしている。当時は神戸市警の所属だった。昭和30年からは兵庫県警所属となったはずである。警察入りしてから剣道復活までは柔道を学び三段を取得していた。
第15回全日本選手権で優勝する鹿児島出身の堀田國弘はスカウトされて尼崎市警に所属していたが、矢野のチームメイトとなった。当時の兵庫県警は警視庁、大阪府警に次ぐ強豪であり、昭和30年、35年、37年、38年に全国警察大会団体戦で2位になっている。矢野、堀田ともに4回ともメンバーに入っており、最後の2回は矢野が大将を務めた。
この11回大会の翌年の東京オリンピックでは、公開競技として剣道が披露され小中学生から高段者、女性までの代表選手が試合をしているが、矢野は警察官の代表として中村太郎と試合を行っている。また、昭和31年の兵庫国体、昭和44年の長崎国体では優勝メンバーとなっている。なお兵庫国体は地元開催だっだが、この当時はまだ地元優勝が当たり前という空気はなく、実力のあるチームが優勝する大会だった。
戦後復活から昭和30年代を通して、剣道界で最も活躍した選手の1人と言ってよさそうである。優勝当時は兵庫県警姫路署勤務で、西播地区の教師という立場だった。
翌年の第12回大会は2回戦で敗退したが、第16回大会(昭和43年)にも出場を果たし、3回戦まで勝ち進んで優勝した山崎正平(新潟)と45歳同士で対戦し敗退した。出場10回を重ねたことになる。
その後指導者として兵庫県警首席師範まで務め、退職後かどうか不明だが姫路東高校剣道部師範も務めた。昭和56年5月19日に逝去しており、57歳か58歳の若さだったことになる。昭和60年に剣道の仕事に初めて携わった私が会う機会はなかった。
矢野の剣風については、さまざまな評価があったようだ。大島宏太郎(当時教士七段)はこんな批評を加えている。
「けいこ量と警察官大会などの大試合から得た豊富な経験をもって動きの早い若手を向うにしてよく戦った。ただしいまの半身の構えからさらに正しく姿勢を変えて欲しいと思う」(「朝日新聞」昭和38年12月2日付)
一方「読売新聞」(同日付)は次のように評している。
「矢野は(中略)第六回大会は三位までいったが、当時は難剣一点張りで、味もうまさも少なかった。しかしこの日の矢野は、一回戦からねばる相手にはねばり、速い相手には自分も速く立ちまわるなど変わり身自在の試合ぶりをみせ、かつての力一本ヤリのところはまったくなかった。
恐らくこの日の各試合はこれまでの矢野七段の全試合をとおし最高のできであったろう」
この記事には「深沢」と署名がある。読売新聞の記者であろうが、剣道についての署名記事を当時よく書いていた人である。この大会では良かったが、かつては「難剣」で味もうまさも少なかったという評価である。
20代が上位を占める中、50歳の八段剣士も出場
当時21歳の桑原哲明が戦後派剣士として初めて優勝したのが3年前の昭和35年で、その年は20代の出場者が2名だけだったが、以後一気に世代交代が進もうとしていた。11回大会の出場者の内訳は20代が19名、30代が23名、40代が13名、50代が1名となっている。そしてベスト8のうち7名までが20代で、唯一40代で食い込んだ矢野が王座を死守する形となった。3年間で一気に世代交代が進み完了目前といったところだが、まだこの先5年間ほどは戦前・戦中派が意地を見せることになる。
2位となった戸田忠男(24歳)は前年の優勝者であり、この翌年に2回目の優勝を果たすので、あと一歩で3連覇だったことになる。興味深いのはこの大会では優勝の翌年に2位という記録が多く見られること。第3回大会(昭和30年)で優勝した中村太郎が翌年2位、戸田の後では第14回大会で優勝した千葉仁が翌年2位、千葉は第17回大会で2度目の優勝を果たした翌年も2位となっている。昭和46年に初優勝した川添哲夫も翌年2位である。いずれの選手もその後2度目(千葉は3度)の優勝を果たしているのも面白い。それだけ抜きん出た力があっても一瞬の隙をつかれて負けることがあるのが剣道という競技の特性であり、平成3年に宮崎正裕が初めて連覇を果たす第39回大会まで、「全日本選手権に連覇なし」と言われていたゆえんでもあるのだろう。
3位の小林三留は26歳でこの年が初出場。大阪府警の中心選手として長く活躍し、昭和45年の第1回世界選手権大会で個人優勝、後には主席師範となった小林だが、層の厚い大阪からこの大会に出場したのは4回だけで、この年の3位が最高成績。しかし他の3回もベスト8が2回、ベスト16が1回と安定した戦績を残しているのはさすがである。
もうひとりの3位・穐山嘉昭は佐賀県警所属で初出場の21歳。以後4回本大会に出場し、ベスト8まで駒を進めたことが1回ある。
ベスト8には桑原兄弟が揃って駒を勧めた。弟の哲明(宮崎・23歳)は3年前の優勝者。井上晋一(京都)、関田秀政(大阪)ら警察官の強豪を破って準々決勝に進出したが、穐山に敗れた。兄の哲哉(福岡)は会社員だが、高校時代は昭和29年に北海道国体の公開競技として行われたしない競技高校男子の部で個人優勝を果たした名選手である。準々決勝で小林三留に敗れた。
残るベスト8は前述の青木と、前年まで2年連続3位の惠土孝吉(愛知)。惠土はライバル視された1歳年上の戸田に敗れている。
出場選手中最年長は、50歳ですでに八段だった井上公義(熊本)。八段剣士の出場はこれが最初で最後ではないだろうか(未検証なので断定はしないでおく)。後に八代東高校を率いて黄金時代を築く名将にとっても生涯唯一の出場となった。1回戦で25歳の石岡立之(岡山)に勝ち、2回戦で狩野勝義(神奈川)に敗れた。
2番目の年長者は49歳・七段で茨城県警察の師範だった中村広修(茨城)。2回目にして最後の出場だった。1回戦で安倍尚志(兵庫)を破り、2回戦で穐山に敗れている。
また、二刀の水野忠(宮城)が2年ぶり2回目の出場を果たしている。1回戦で宮近政久(鳥取)に勝ち、2回戦で上段のベテラン大浦芳彦(福岡)を破ったが、3回戦で戸田の上段の前に屈した。2年前も同じ3回戦で、同じく戸田に敗れている。
2025年7月27日記