埼玉武道のメッカだった浦和武徳殿は、お化け屋敷として天寿をまっとうした

美しき道場
加須市「むさしの村」でお化け屋敷となっていた浦和武徳殿

 浦和武徳殿は、『浦和総覧』(昭和2年発行)によれば明治42年(1909)12月、大日本武徳会埼玉支部として浦和町に竣工した。『埼玉県剣道連盟三十年史』(昭和59年発行)では、明治44年(1911)竣工となっている。

 京都の大日本武徳会本部武徳殿だけでなく、各道府県にあった武徳殿も多くは単に「武徳殿」と呼ばれていたようである。この武徳殿は大日本武徳会埼玉支部の建物なので、「埼玉武徳殿」と呼ぶのが正しいのかも知れないが、地域によっては混同するケースもあるので、基本的に都市名をつけて呼ぶことにする。

落成して間もない頃の浦和武徳殿

大正末頃に撮影された武徳殿での稽古風景

 浦和武徳殿は埼玉県庁にほど近い浦和市高砂町(現在のさいたま市浦和区高砂)にあった。昭和59年の『埼玉県剣道連盟三十年史』には「十七号国道沿い現県庁舎〈保健所分室〉の地」とある。「剣道日本」平成14年(2002)年4月号「剣道歴史紀行」では、筆者の堂本昭彦氏は「現在埼玉診療所や自治会館のあるところ」としている。『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 浦和』(昭和58年)は、「現在の県職員会館の場所にあった」としている。

 現地を訪ねてみると現在も(2024年9月時点)、地方職員共済組合埼玉診療所は平成14年と同じ位置にあった。南側の自治会館はなく駐車場になっている。埼玉診療所の北側には埼玉県庁職員会館がある。西側の国道17号沿いに民間のマンションがある。古い地図や航空写真を見ると、以上のすべてが武徳殿の敷地で、建物は埼玉診療所の場所にあったと思われるのだが、どうだろうか。昭和44年(1969)まであった建物なので、どなたかご存知の方がいたらご教示ください。

浦和武徳殿があった一帯。中央の樹木の右に見えるのが埼玉診療所、右手前に一部だけ見えるのが職員会館。樹木の陰になっている駐車場あたりまでが武徳殿の敷地だったと思われる(2024年9月撮影)

 この武徳殿で大日本武徳会埼玉県支部発会式が行われたのは、明治45年(1912)3月のことだった。発会式では門奈正と高野佐三郎が「武徳会剣術形」を演武、まだ日本剣道形はできていない。試合は十二組が行われ、持田盛二、堀田捨次郎、高橋赳太郎、柴田衛守、川崎善三郎らが出場した。持田はまだ20代半ばである。以後、埼玉県の武道のメッカとして多くの稽古や大会が行われた。

浦和の発展と高野佐三郎の剣脈

 浦和宿には明治2年に浦和県の県庁が置かれ、明治4年には合併して埼玉県となり県庁所在地となるのだが、意外なことに浦和の市制施行は全国の県庁所在地の中で一番遅く、昭和9年(1934)のことだった。県内では川越市、熊谷市、川口市に次ぐ四番目である。大正12年(1923)の関東大震災の後、東京や横浜から移住する人で、浦和町の人口は一気に3000人以上増えた。当時の人口は1万2000人程度だったという。

 浦和市が大宮町を抜いて県内2位の人口となったのが昭和10年(1935)、大幅に人口が増えたのはやはり戦後の高度成長期以降である。川口市を抜いて県内1位となったのは1995年(平成7年)とこれも意外と遅い。2001年に大宮市などと合併してさいたま市となった。

 武徳殿から500mほどだろうか、西に行くと別所沼公園がある。昭和初期にはこの別所沼の周りが別荘地として知られ、多くの画家が移り住み、「鎌倉文士」と対比して「浦和画家」という言葉が生まれた。今もこのあたりは高級住宅地で、さいたま市浦和区の年収1000万円以上の世帯の比率は東京都世田谷区や渋谷区よりも高いそうだ。

 剣道からは少し話がそれたが、そんなふうに浦和の町が発展し変わっていく中で、明治末から高度成長期まで町の中心に武徳殿が鎮座していた。武徳殿の歴史を調べていると、そんな都市の歴史まで知りたくなる。それぞれの時代に人々がどんな思いで武徳殿を目にしていたのか想像したくなる。武徳殿があった時代は、剣道も町の人々の中心にあったのではないだろうか。

 現在、各地の武道館は駐車場も必要なので、都市の中心部からは少し外れたところにあることが多い。武道と縁のない人はその存在すら知らないかも知れない。そのあたりが剣道そのものの社会における存在感とダブって見える。

 高野佐三郎が浦和明信館を開いたのは明治25年前後である。場所は埼玉県師範学校のグラウンドがあったため体育ヶ原(たいいくっぱら)と呼ばれた一帯の北側、現在の浦和駅西口ロータリーの南側の一角だった。武徳殿までは1km弱である。数年後に佐三郎は東京神田に明信館を開いたため、浦和明信館の運営は佐三郎の養子となった高野茂義に委ねられ、大正3年に茂義が満州に渡った後は佐三郎の女婿となる鈴木祐之丞(淳厳)が運営した。茂義も鈴木も茨城県水戸市近辺の出身である。

関東大震災で神田の明信館が焼失したため、浦和の明信館を解体し神田に新しく建て直した。人々の移動とは逆である。

 剣道具作りの名人として知られた故・鈴木謙伸さんの鈴木剣道具店も別所沼の近くにあり、今は孫の崇敏さんが継いでいる。鈴木さんの母方の祖父は高野佐三郎、父は鈴木祐之丞だ。かつて『鈴木謙伸が作る本物の剣道具』という本を作らせていただいたことがあり、私は鈴木剣道具店に何度も足を運び、取材が終わった後、浦和名物のうなぎを別所沼のほとりの店で何度かごちそうになった。鈴木さんがここに店を開いたのは戦後の昭和28年だが、関東大震災の後高野佐三郎が、浦和にはいい剣道具屋がないからと言って、このあたりに鈴木さんの先輩職人を連れてきて住まわせ防具を作らせていた、と鈴木さんが思い出を語っていた。もちろん武徳殿が近い場所にしたのだろう。

加須市「むさしの村」に移築される

 第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)、浦和市も空襲を受けたが、比較的小規模なものだった。とはいえ県庁付近に焼夷弾などが投下され民家130戸が焼けたという記録があるので、武徳殿が無事だったのは幸運だったといる。

 戦後剣道の復活後も浦和武徳殿は、昭和30年には第3回三県対抗(埼玉、茨城、栃木)親善剣道大会の会場となるなど、しばらくの間は以前と同じように使用されていたと思われる。

 昭和43年に県庁舎北側に鉄骨、鉄筋コンクリート造りの埼玉県武道館(のち埼玉県立武道館)ができた。武徳殿は役目を終えたということだろう、昭和44年から解体された。が、加須市の「むさしの村」に移築されて「武芸館」として保存されることになった。昭和59年発行の『埼玉県剣道連盟三十年史』には「現在加須市むさしの村に移築されている」と書かれていた。

 前出の「剣道歴史紀行」という連載で浦和武徳殿のその後を取材することになったのは、平成14年(2002)の初め頃だったと思う。筆者である堂本昭彦氏は、むさしの村「武芸館」で母と子が剣道をする様子をテレビの番組で見たことがあるという。

 しかし、インターネットで調べていて見つけたのは、浦和武徳殿が「お化け屋敷」になっている写真だった。仰天した。いや、掲載号の「編集後記」を見ると「心が踊った」と私は書いている。悲しい末路であるとは思ったが「見に行きたい」という気持ちが先に立った。

 ところが、むさしの村に電話を入れると「その建物はもうないんです」と言われ愕然とした。ショックではあったが、なくなった経緯を聞くためにむさしの村に向かった。

 そもそも私も堂本氏も、むさしの村がどんな施設なのかを知らなかった。愛知県の明治村のような古い建物を集めた施設なのかと想像していた。

 実際は、むさしの村は現在に至るまで、「緑の中の不ファミリーランド」としてアトラクションやちびっこプール、農場、牧場などを備えた、埼玉県および近県のファミリーに愛されている施設だった。社内でむさしの村について聞いてみると、東京近郊で育った人たちは結構知っていて、何人かは「♪むさしの村」とCMのサウンドロゴを口ずさんだ。ラジオだけでなくテレビでもCMを流していたことがあるらしい。

 昭和44年の開園なので、それに合わせて武徳殿は移築されたのであろう。社員の方の話では、長い間、各種展示会の貸会場や団体客の休憩場所として使われていたそうだ。そして平成8年(1996)からお化け屋敷として使われ、平成11年(1999)5月に老朽化のため取り壊されたとのこと。90年弱の命だった。

 取材時に「当時の写真はないですか」と尋ねると、むさしの村の社員の方ではなく、(株)丸山工芸社の方が数枚の写真を提供してくれた。ここで掲載している写真である。屋根は葺き替えられているようだ。今調べてみると、丸山工芸社はお化け屋敷設計・施行(および子ども向け遊具の設計)を行う会社で、大正11年(1922)創業という老舗だった。かなり本格的なお化け屋敷だったのではないだろうか。

 かつてこの道場で汗を流した人がこの写真を見れば、悲しく寂しい気持ちになるかも知れない。しかし、古い道場や武徳殿の外観、あるいは内部の空間に何か神秘的なものを感じて惹かれている私としては、お化け屋敷という使い道はピッタリだと思うし、「その手があったか」と讃えたいほどである。この建物を見ただけで、少なくとも子どもたちは「怖い」と感じたのではないだろうか。

 ちなみに、昭和43年に落成した埼玉武道館も今はもうない。平成15年(2003)の埼玉国体を迎えて上尾市に新築移転となった。跡地には埼玉県危機管理防災センターがある。

お化け屋敷当時の武徳殿を正面から

全国各地の武徳殿の運命

 明治30年代後半ぐらいから、大日本武徳会の道府県支部としてそれぞれ武徳殿が建てられ、その道府県の武道のメッカとなる。その内現存するのは全国で9箇所である。明治の後半に建てた武徳殿が老朽化した、あるいは狭いという理由で、昭和初期に新しい武道館に建て替えたという例も多い。現存する武徳殿の多くは昭和になってからの建築で、明治時代の建築物は和歌山武徳殿しか残っていない。また9つのうち3つは他の目的に転用されている(寺の施設、旅館)。

 戦災で焼失した武徳殿も多かったが、焼け残っても昭和40~50年代に老朽化し、取り壊された例も少なからずあった。浦和武徳殿もその一例だが、移築され他の目的に使われたという例は、他には上記した三つの現存する武徳殿があるくらいで、珍しい。

 建物には寿命がある。京都の武徳殿は国の重要文化財になっているし、江戸時代に建てられた剣術場には国指定史跡になっているものもあり、各地に登録有形文化財となっている道場がいくつかある。それらは将来も保存されていくだろう。それ以外の文化財になっていない道場はいつかは老朽化し、最後は壊される運命にある。

 第二、第三の人生においても多くの人を受け入れた浦和武徳殿は、最期までその役割をまっとうし幸せな終焉を迎えたといえるのかも知れない。

2024年9月7日記

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