京都市の東山近くには平安神宮に隣接して武徳殿があり、現在も全日本剣道演武大会などで使用されている。これは大日本武徳会本部の武徳殿として、明治32年に落成した道場である。
その京都市にはもう一つ武徳殿があった。大正から昭和初期の古地図を見ると、市街地の西の外れ、北野天満宮近くに「京都武徳殿」という文字が見える。大正2年(1913)に大日本武徳会京都支部の武徳殿として建てられたものだ。本部は単に「武徳殿」、支部は「京都武徳殿」と呼んでいたのだと思われる。
この武徳殿も紆余曲折を経てはいるが、本部武徳殿同様に現存している。
1913年、武徳会京都支部武徳殿として竣工
大正天皇の即位を記念して建てられることになったというこの道場は、敷地1915坪のうち本殿建物324坪、事務所63坪、そのほか武者溜、弓術場、倉庫などの施設を備えていた。建物の意匠や材質は本部武徳殿をしのぐと評されていたそうである。大正2年12月16日に竣工し、翌年2月11日に盛大に落成式が行われた。
戦前、大日本武徳祭大演武会(現在の全日本剣道演武大会)が行われる期間は、この支部道場で右武会(錬士以上の剣道家による全国組織)主催の稽古会が毎朝開かれた。
戦後は昭和22年に京都府に移管され、「平安道場」として警察の柔道、そして復活後の剣道の道場となった。やがて少年指導や居合道の稽古などにも開放され、段位審査会場ともなっていたと聞く。本部武徳殿の方は戦後は京都市に移管されて、昭和31年から50年代までは京都市立音楽短期大学の施設となったため、修復保存工事を経て昭和62年に京都市武道センターの一部となるまで、京都大会以外ではほとんど使用できなかったこともあり、平安道場は京都の剣士たちにとって貴重な施設だったはずだ。
1998年、老朽化のため閉鎖される
私がこの建物を初めて見たのは、平成10年(1998)の京都大会前後ことだった。「剣道日本」の「京都剣道歴史散歩」という単発企画で訪ねた。建てられた当時はこの場所も北野天満宮の境内だったそうだが、取材当時は京都府上京警察署の南側の警察官舎の敷地となっていた。3~4階建ての官舎が周囲にいくつもある中に、武徳殿は肩身が狭そうに立っていた。全貌を写真に収めるのが難しく、官舎の最上階のご家庭をいきなり訪ねて、ベランダから写真を撮らせて欲しいとお願いしたところ、快く許可をいただいた。現在ではセキュリティ上、まず上の階まで上がれないだろうし、警戒され断られるに違いない。時代は変わった。
この時点では、築75年を経て老朽化していたが、道場はまだ使われているようだった。窓から中を覗くことはできたが、柔道の畳が半面に敷いてあったか、畳んで積まれていたような記憶がうっすらとある。しかし、まさにこの平成10年にこの武徳殿は閉鎖されたと記録にある。私が覗いたときはすでに使っていなかったのかも知れない。
2004年、保存運動が立ち上がる
2回目にこの道場へ足を運んだのは、7年後の平成17年3月だった。道場はまだあったが解体の方針が決まっていた。それに対し「近代和風建築修復・保存・活用に協力する会」を平成16年に結成し保存を呼びかけている方々から知らせをいただき、取材することにしたのである。
無雙直傳英信流山内派の団体に所属する藤木襄治さん、月本一武さんらが中心となり、さまざまな団体の武道関係者が保存運動に協力し、広く一般市民にも呼びかけて地元商店街の人々なども含め、すでにこの時点で5000名ほどの署名が集まっていた。全剣連に所属する人たちもいたが、それ以外の古流剣術、居合、空手、なぎなたなどの団体も多く賛同していたようだ。
しかし所有者である京都府警察の見解は平成16年の時点で「修復には巨額の費用がかかり、今のところ解体しかない」というものだった。そのことが地元紙の京都新聞でも報じられていた。
同会は署名を集めるだけでなく、京都府知事、京都市長、京都府教育庁文化財保護課長などにも面会して保存を訴えていた。藤木さんらメンバーの話で記憶に残ったのは、京都はもっと歴史の古い建造物や文化財が多数あるため、明治以降の比較的新しいものは後回しになってしまう、という話だ。平成8年から「登録有形文化財」の制度が始まり、全国各地で大正期、昭和初期の建物が続々と登録され、後にはいくつもの武道場が文化財となっていくが、京都という古都ならではの難しさを感じた。「そんな最近のものまで残していたらキリがない」という感覚なのだろう。
「剣道日本」2005年6月号でこの運動を紹介し、賛同を呼びかけた。どの位の効果があったかは分からないが、最終的にはこの年8月に約7000名の署名を提出したと聞いた。
2011年、救いの手を差し伸べた名刹
朗報が舞い込んだのはさらに6年後の平成23年だった。移築・保存が決まったという知らせを聞いて、5月の全日本剣道演武大会取材の折に、現地に足を運んだ。道場はすでに解体作業に入っており、囲いで覆われて屋根の最上部だけが見えていた。
きっかけとなったのは、「近代和風建築修復・保存・活用に協力する会」のメンバーが道場保存のため、友人の紹介で雅楽奏者・東儀秀樹氏によるチャリティコンサートを開いたことだったという。それが平成19年11月のことだった。音楽関係者、武道関係者や茶道関係者などさまざまな分野の人々が訪れた中に、青蓮院門跡の関係者がいた。
門跡とは皇族や摂関家が住職を務める寺の称号である。天台宗青蓮院門跡は江戸時代に仮御所となったこともあり、日本三不動の一つ「青不動」を所蔵することでも知られる。庭園の紅葉や霧島ツツジ、襖絵などで知られ、多くの観光客を集めている寺だ。本部の方の武徳殿に近い東山地区に位置している。
武道とも深い関係があり、昭和28年に戦前の大日本武徳会を継続する趣旨で発足した大日本武徳会の総裁を、前門主(住職)で元皇族の東伏見慈洽氏が務め、平成26年からはその子である東伏見慈晃門主が務めている。大日本武徳会は、戦後それ以前に全日本剣道連盟をはじめ柔道、なぎなたなどの連盟が活動を初めていたため財団法人としての設立が文部省から認められなかったが、独自の活動を続け、現在は一般社団法人として武道の継承、普及、発展のため活動している。
青蓮院門跡は東山山頂の将軍塚と呼ばれる飛び地を所有しており、そこに新たな護摩堂の建設を計画していた。将軍塚は桓武天皇が京都に都を定めるにあたって、ここから京都盆地を眺め、将軍の像に甲冑を着せ埋めて都の安泰を祈ったと言われる場所である。
それに加えてそもそも大正2年に京都支部武徳殿を建てるにあたって発起人となった伏見宮貞愛親王が、東伏見家の血縁だったということも動機になったという。この年3月、青蓮院門跡による移築・保存が正式に決定した。この取材時は東伏見慈晃門主にも話を聞くことができた。上記のような事情があることや、何よりも木造の大建築として貴重であり、文化財としての価値が高いものであるという認識から「何としても残さなくては」という思いを話していた。大会や講演会、武道の鍛錬の場として活用できるようにしたいという構想も語っていた。
あきらめることなく長い時間をかけて目的を達成した「近代和風建築修復・保存・活用に協力する会」のメンバーにも再開した。所管であった京都府警察の関係者やOBの協力にも感謝しているとのことだった。
ここに至るまでにクリアしなければならない問題は多かったようだ。将軍塚周辺は本来建物を建てられない場所であり、法的手続きをクリアするために長い時間がかかったという。さらにこの時点でまだ課題は残っていた。予想される総工費6億8000万円のうち4億円弱しか用意できておらず、さらにパートナーや寄進を募る必要がある、とのことだった。
2014年、新たな観光名所となった青龍殿
移築が終了し、「青龍殿」として公開されたのはさらに3年後の平成26年(2014)10月のことである。建てられてから102年目に入っていた。閉鎖から16年、保存運動が始まってからは10年が経っていた。
私が青龍殿に足を運ぶことができたのは、それから1年以上が経った平成28年2月である。平日だったがかなりの数の観光客の姿があった。建物の中は武徳殿そのままの床が広がり、護摩祈祷を行う場所は奥殿として増築され、ここに国宝の青不動(青不動明王二童子像)が安置された。
目を見晴らされたのは青龍殿に接して新設された、清水寺の4.6倍の広さを持つという木造の大舞台だった。ここから京都市内を一望のもとに見渡すことができる。
かつてアパートの間に身を狭めるように建っていた頃に比べ、こうして広々とした場所に身を置いた武徳殿は建築物としての美しさ、風格が何倍も増したように感じられた。こうして幸せな形で道場は生きながらえた。移築・保存に関わった方々に敬意を表したい。そして私自身もとても嬉しい。
その後、青龍殿は音楽会や講演会などのイベントにも使われているようだ。高校の剣道大会に使われたという話も耳にしたが、武道関係にどれくらい使われているかは分からない。それでも観光のために多くの人が訪れ、青龍殿がかつて武道場だったことを知り、武道の価値や歴史を感じてもらうだけでもいいと思っている。それらを実感を持って感じられる場所は意外に少ない。剣道をする方は京都観光に行ったらぜひ足を運んでいただきたいと思う。
令和4年、青蓮院青龍殿(旧大日本武徳会京都支部武徳殿)として登録有形文化財となった。
2025年1月8日記