岡山県の鏡野高校の名前は、インターハイや国体の大会プログラムに載っている過去の優勝校として知っていた。気になりだしたのは、昭和62年(1987)に別な取材で津山市を訪ねてからである。道場の指導に携わっている若い女性にスポットを当てた取材だったが、その道場の指導者の一人であった坂下(旧姓杉田)誠さんに、こんな学校があったんですよと、鏡野高校の剣道部史『雪割桜』をいただいた。「あった」というのは、すでに閉校になっていたからである。
その翌年、警視庁の取材でお会いした当時の特錬コーチ、益田信吾さんからも鏡野高校出身であると聞き、さらに興味を持った。
閉校は昭和60年(1985)で、その時点では「つい最近」のことだった。
鏡野高校は、その当時大阪府警の主席師範であった小林三留さんや、その弟でやはり大阪府警の小坂達明さんらを輩出した、戦後剣道復興期の強豪である。昭和38年の第10回全国高等学校剣道大会(インターハイ)優勝、国体では単独校チームとして(国体は昭和50年まで各都道府県選抜チームではなく単独の高校チームが参加していた)優勝4回という戦績を残している。
指導者は極楽寺住職の表江智舟さん
岡山県苫田郡鏡野町は、中国山地の間に開けた津山市の西北に隣接する町だ。創部当時から鏡野高校剣道部を率いて日本一へと導いた教師・表江智舟(ひょうえ・ちしゅう)さんは、鏡野町にある青木山極楽寺の住職でもあった。
表江さんは旧制津山中学剣道部で活躍した後、和歌山県の高野山大学に進んで剣道部創設に関わった。卒業後の昭和16年から高野山中学で英語と剣道を指導、戦後は地元に戻ったが、昭和23年に鏡野高校の前身である興和高校が開校し、校長からの度重なる要請を受け赴任する。
当時は学校での剣道は禁止されており、表江さんは国語を教えていた。昭和27年に全日本剣道連盟が発足すると、その年11月1日に表江さんは興和高校剣道部を創設し、勧誘した5人の部員で撓(しない)競技の活動を始めた。その創立メンバーだった坂下さんはそれまでバレーボール部に入っていたが、表江さんに誘われて剣道に興味を持ち、すぐに夢中になったという。
6つの村が合併して鏡野町が誕生したのが、同じ年の11月10日。校名が鏡野高校となるのは翌年の4月である。
私が鏡野町へ取材に向かったのは平成3年(1991)の、たぶん初夏だった。剣道部史を読んで、昭和30年代というのは当時からしても一昔前の話だったので、大変失礼ながら表江さんという方はもう亡くなっていると思い込んでいたが、坂下さんに連絡を取ると「表江先生のところにもご案内しましょう」と言われ、驚くと同時に胸が高鳴った。
極楽寺は大きな寺だった。奈良時代、和銅年間の開基で、往時は570坊の寺が甍を並べ繁栄したと伝わっている。室町時代に戦火で焼失し、その後一部が再建されたのが現在の極楽寺だという。静かに水をたたえる極楽寺池のほとりに建っており、幽境ともいうべき風情があった。その池に足を掛けて立つ「極楽コミュニティハウス」という名の剣道場で表江さんに会った。このとき73歳。天から降りてきた仙人に会ったような気分だった。
「部員が少なかったですから創部当時は(稽古時間は)1時間ぐらいのもの。その後も2時間まではいかなかった。そのかわり大晦日も元旦も休まずにやりました。選手には根性があった。試合の後、勝っても負けてもまっすぐ家へ還らずに道場へ行って練習して帰ったんです。私の知らない間にですよ」
表江さんはたたずまいも口調も穏やかで、こんなふうに教え子を称え、いろいろな話をしてくれた。日本一を目指し戦っている現役の監督のようなギラギラしたところや厳しさはまるで感じられなかった。

平成3年当時の極楽コミュニティセンター(池の上)。左奥に極楽寺の本堂などがある

平成3年取材時の表江智舟さん
創部から4年で日本一に
創部翌年の昭和28年、第1回の岡山県下高校撓競技大会が開かれ、鏡野高校はいきなり団体戦で優勝、坂下さんが個人2位となった。参加校がわずか9校という時代であったとはいえ、表江さん自身も驚いたという。当時は体育館もなかったため稽古は校庭で行い、雨の日は教室の机を隅に寄せて稽古をした。ただ坂下さんによれば、帰宅してからも家でそれぞれが素振りなどを熱心にしていたという。
インターハイで剣道が始まったのは翌年の昭和29年である。坂下さんらは卒業し、選手となったのは米沢睦美さん、小坂三留さん、正影丈夫さんだった(当時は3人制)。この大会は撓競技部門と剣道部門が行われたが、鏡野高校は撓競技部門に出場しベスト8に進んでいる。2位になった若松高校(福岡)に準々決勝で敗れた。
小坂三留さんは卒業後大阪府警に進み、小林と姓が変わる(以下小林と表記)。第1回の世界選手権で個人優勝、全日本選手権3位、全国警察大会団体では7回も優勝メンバーとなり、取材当時は大阪府警の主席師範だった。電話で話を聞くと、こんな言葉が返ってきた。
「表江先生は個性を大切にする指導で、型にはめるということをされませんでした。そして『やれ』とうるさくいわれなくても、この先生のためにやらねば、という気にさせられました。(中略)今になって指導者としての表江先生の魅力をつくづく感じます」
国体で優勝し、鏡野に帰った小林さんたちは、トラックの荷台に乗って優勝パレードをしたという。国東安岐高校の記事では優勝パレードの写真を紹介したが、同じような光景だったのだろう。
翌昭和30年のインターハイもやはり撓競技部門に出場し、米沢さん、小林さんに宮本金一さんが加わり2位に躍進した。前年優勝の小豆島高校(香川)を準決勝で破り、決勝では秋田商業高校に1─2で惜敗。この年9月、5人制で行われた第1回中国5県高校剣道大会では見事初優勝を果たす。
さらにその翌年、昭和31年のインターハイは、5人制となった剣道の部に初めて出場、準決勝まで勝ち進むも安房第一高校(現在の安房高校・千葉)に2─3で惜敗する。
この年10月、兵庫県赤穂市で行われた第11回国体では初めて3人制の高校の部が設けられた。当時は単独校チームとして参加、鏡野高校と、インターハイを制した中京商業高校(愛知)、徳島農業高校による決勝リーグで優勝が争われ、2勝した鏡野高校が初の日本一に輝いた。のちに中京大で活躍する惠土孝吉さんがいた中京商業には先鋒戦で牧本貞夫選手が(おそらく惠土選手に)敗れるも、中堅小林選手、大将米沢選手が勝って逆転勝利を収めた。
この時期が鏡野高校の第一次黄金期と言える。小林選手、米沢選手は2年前から不動のレギュラーで、そこに1学年下の牧本選手が加わった。表江さんは鏡野高校剣道部史『雪割桜』にこう記している。
「牧本貞夫君(大阪府警本部)は全国大会で連続2回優秀選手になっているが、その業の冴えと勝負強さは抜群であった。津山で一般の部の中国大会があり、高校生として初めて個人戦に出場した牧本が全日本クラスの6段、7段の強豪をやぶり、第3位になり話題になったが、彼の強さは超高校級であった」
牧本選手は小林選手を追うように大阪府警に進んだ。小林選手の7回には及ばないが、全国警察大会優勝メンバー(決勝に出場)に2度名前を連ねており、その後大阪府警の指導者となっている。
米沢選手は国士舘大学に進んで主将を務め、卒業後は郷里に戻って教員となり、母校鏡野高校の教員時代は表江さんの下で何度も生徒を日本一へと導いた。自身も全国教職員大会個人で4度の3位入賞があり、昭和37年の岡山国体では当時あった教員の部に先鋒として出場し優勝を果たした。のちに土居と姓が変わる。
昭和31年のインターハイでは米沢選手と牧本選手が優秀選手に選ばれ、牧本選手は翌年(ベスト4)も優秀選手となっている。この取材の後年、八段になってからも明治村剣道大会で2度優勝するなどの実績を積み重ねた小林さんだが、高校時代はこの2人よりも目立たない存在だったようだ。
なお、鏡野高校は開校当時から昼間定時制であり4年で卒業となる学校だった。農業科と家庭科があり、例年農業科の新入生は20数名から50名弱。小林三留さんを例にとれば、剣道を始めたのは2年生になった昭和29年のことで、その年の夏には早くもインターハイ撓競技でベスト8となり、3年生でインターハイ撓競技2位、4年生でインターハイ剣道ベスト4、国体優勝という結果を残したことになる。
国体優勝を受けて剣道場建設の機運が高まり、昭和34年4月に落成した。

昭和31年の国体で優勝。左から2人目より米沢選手、小林選手、牧本選手、表江監督
2回目の黄金期は国体、インターハイ、国体と続けて優勝
2回目の黄金期は昭和37年~38年である。37年に地元岡山で開かれた国体に向けての強化が実り、その国体で2度目の優勝を飾った勢いで、翌年のインターハイで初の頂点に立ち、さらに国体で連覇を遂げた。
この黄金期の2枚看板が冒頭に記した大将の益田信吾さんと、先鋒を務めた藤田長久さんである。初の日本一となった昭和37年の国体決勝は、当時の最大のライバルといえる嘉穂高校(福岡)との対戦となった。嘉穂高校は昭和36年のインターハイで優勝、37年夏のインターハイでは準決勝で鏡野高校を破り決勝も勝って連覇を達成していた。国体で鏡野高校は藤田選手が勝ったものの次鋒から2連敗し、副将久宗勇選手の勝利で追いつき、益田選手の勝利による逆転勝ちでリベンジを果たす。翌年のインターハイ決勝は3連覇を担った嘉穂との再戦となり4─1で勝利、国体決勝は鹿児島商業高校に5─0で勝利と力を見せつけている。
益田さんは初めに書いたように警視庁に進み、全国警察大会にも4回出場したが20代半ばで身体を痛め、若くして指導者の道を歩むことになった。
藤田さんは国士舘大学に進み大活躍した。昭和39年には1年生ながら先鋒を務め国士舘大学の関東学生、全日本学生団体初優勝メンバーとなった。昭和41年も同じく先鋒として、関東、全日本を制している。個人戦では全日本ベスト8が最高だったが、2年生だった昭和40年、東京都予選を勝ち抜き全日本選手権大会出場という快挙を成し遂げた。学生の全日本選手権出場は昭和36年の惠土孝吉さん(中京大学4年)が嚆矢と思われるが、2年生での出場は藤田さんが初めてだろう(そして唯一かもしれないが、すべてを確認できていないので断言はしないでおく)。
藤田さんは卒業後地元に帰って教員となり、昭和44年には2回目の全日本選手権出場を果たしている。3回戦では4年後にこの大会を制する山田博徳選手(熊本)を破り、準々決勝では奇しくも先輩である小林三留さんと顔が合う。高校生当時、小林さんの世話で藤田さんらは何度か大阪府警に出稽古に行っている。この大舞台で、藤田さんは当時大阪府警の大将だった小林さんに勝ってしまう。矢野洋二選手(愛媛)に準決勝で敗れるも、3位入賞を果たした。
平成3年の取材当時、藤田さんは津山東高校に勤務していたが、後述するように昭和41年から鏡野高校は津山東高校分校となりやがて閉校となったため、鏡野高校時代の数々の賞状が津山東高校の道場に飾られていた。その後も藤田さんは指導者として活躍、岡山県剣道連盟の会長も務め、令和7~8年度は名誉会長の職にある。
「あの頃はひたすら一つの得意技を磨いた。それぞれの個性を生かした剣道ができていたような気がします」
と取材当時藤田さんは話していた。益田さんにも東京で改めて話を聞くと、
「平均点は低くてもいいからそれぞれが一つだけずば抜けたものを身に付けるように指導されました」
と、同様のことを話していた。

昭和38年のインターハイで初優勝。左端は土居(米沢)睦美さん、右端が表江さん

昭和37年の国体決勝、大将戦。右が益田選手
普通科となり、分校となり、ついに閉校
二回目の黄金期となった昭和38年には過去最多の65名が農業科に入学するが、翌昭和39年度より定時制普通科となると、93名が入学した(女子も含む)。生徒はむしろ増えている時期だったが、41年度からは校名が津山東高校鏡野分校となる。その翌年度からは定時制を廃して、3年制の普通科となった。昭和41年には小林三留さんの弟である小坂達明さんらを擁して、津山東高校鏡野分校としてインターハイ3位に入賞している。
昭和46年、和歌山国体の剣道競技は高野山中学校で行われ、津山東高校鏡野分校は久々の日本一に輝く。予選リーグでは初戦でPL学園高校(大阪)に2─3で敗れるが、長崎東高校がPL学園を3―2で破っていたため、最後の長崎東との対戦に望みをつないだ。この試合を4─1で制し何とかトーナメントに進む。
宇都宮学園高校(栃木)との準々決勝、琴平高校(香川)との準決勝はともに大将戦にもつれるが、上段の大将・新家彰選手が踏ん張って勝利、決勝では鹿児島商工高校に対し中堅戦を落としたのみで4─1で勝利した。
高野山大学に学び高野山中学で教師を務めた表江さんにとって、第二の故郷での優勝は感慨深いものだったようだが、これが最後の日本一となった。最初に対戦したPL学園はこの翌年に初めてインターハイ団体を制し、やがて一時代を築くことになる。
鏡野高校(撓競技も含む)が全国大会で残した戦績(ベスト8以上)は、インターハイでは優勝1回、2位1回、ベスト4が1回、ベスト8が3回、国体では優勝4回、2位1回、ベスト4が1回である。
益田さんは3年間極楽寺に下宿していたそうだ。時代が下ると鏡野町内や隣接する津山市以外にも、県内各地から強豪である鏡野高校で剣道をしたくて入学する生徒が現れ、たとえば倉敷市出身者もいた。そういう生徒の何人かは表江の極楽寺や他の教師の家に下宿して通った。
県外からの越境入学はこの時代にはまだなかったようだ。全寮制のPL学園はやや特殊だが、昭和50年代後半から台頭する高千穂高校(宮崎県)、阿蘇高校(熊本県)など鏡野高校と同じ地方の小さな町の高校は、最初は地域の生徒だけで強くなり、やがて他県の生徒も集まるようになり寮で共同生活を送るようになった。鏡野高校が全国大会から姿を消すのと入れ替わるように、そういう時代が訪れようとしていた。
鏡野高校の強さの源はすべてが表江智舟という名指導者に帰すと言っていいだろう。取材したOBの方々が異口同音に話していたのは、表江さんの話の上手さだった。有名剣士の話や先輩たちが努力した話をよくしていたという。そして対戦相手を分析し適切なアドバイスをしてくれたそうだ。さらに誇張でなく365日稽古をしたことも挙げられる。「鳥の泣かぬ日はあっても、高校に竹刀の音のしない日はない」と町民は言ったそうだ。
一つだけつけ加えれば、4年制だったこともあるだろう。とくに昭和30年代前半は剣道が復活したばかりでほとんどの生徒が高校生になってから剣道を(あるいは撓競技から)始めていることもあり、1年の経験の差は大きかったのではないだろうか。
津山東高校鏡野分校となってから新入生は40名前後で推移したが昭和50年頃から減少し、昭和56年度、57年度はともに19名となると、昭和58年度中に閉校が決まった。昭和60年3月に最後の卒業生を送り出し、残った学年は本校である津山東高校に移った。
鏡野町の人口は昭和25年(1950)の2万6千人強がピークで、高度成長期には減りはじめ、1960年代後半に2万人を割っている。私が取材した1年前の平成2年(1990)は1万6千500人ほどだった。当時は都市部の人口は増えていたので実感がなかったが、高度成長期は地方から大都市圏に人々が移動した時代で、地方の農村は人口減少に直面していた。令和の今、全国で起きている人口減少をすでに60年前の農村は経験していたのである。
鏡野町は2005年に2町2村で合併し新しい鏡野町となったが、他の1町2村を加えた2026年現在の人口は1万2千人弱となっている。
表江さんは昭和53年に退職、翌年には鏡野町の名誉町民となり、のちに鏡野町文化スポーツセンター前に胸像が建てられた。平成16年に85歳で逝去したそうだ。小林三留さんも令和4年に没した。
「技術的には今の高校生のほうがずっと上。今だったら県大会の3回戦ぐらいが我々のレベルじゃないかと思う」
と平成3年当時藤田さんが話していた。もちろんそうだろう。けれども剣道がゼロから再出発して隆盛に向かっていく昭和30年代から40年代は、剣道をする人たちが輝いていたように私には思えてならない。剣道が今より多くの人々の心をつかみ、地域の人たちを巻き込んでいたのではないか。そして鏡野高校ほど強くはなくても、剣道を人々が温かい目で見守り、憧れの目を向けていた町や村が各地にあったのではないか……。
そんな時代を走り抜けた表江智舟さんと鏡野高校OBの方々にお会いできて、本当に良かったと今でも思う。

昭和46年の和歌山国体で優勝、一行の帰着を歓迎するため駅で待つ人々

平成3年当時、学校の跡地は一般企業の敷地となり、(柵の中で見づらいが)高等学校跡の碑(左)と国体優勝記念「闘魂」碑だけが残っていた
2026年2月16日記

