第16回全日本剣道選手権大会(1968)、市役所勤務の上段剣士が、45歳の最年長記録で優勝

全日本選手権物語
45歳の山崎正平が大会を制した

 第16回全日本剣道選手権大会は昭和43年(1968)12月1日に行われ、45歳の上段剣士・山崎正平(新潟)が頂点に立った。これは令和6年現在も最年長優勝記録として残っており、かつ最後の40代優勝者となっている。また新潟県所属の選手では3位以上の入賞者としても唯一の記録である。

 山崎はこれが6回目の出場。初出場が39歳という遅咲きである。2年前にベスト8に進出したことはあるが、優勝候補に数えられるような存在ではなかった。

 勝ち上がりは以下の通りである。(2回戦より登場)

2回戦 山崎 コド─ 阿部信三(鳥取)
3回戦 山崎 メ─ 矢野太郎(兵庫)
4回戦 山崎 メメ─ド 幸野実(神奈川)
準決勝 山崎 コメ─ 野沢治雄(埼玉)
決 勝 山崎 メメ─ 戸田忠男(東京)

「勝ちに不思議の勝ちあり」と言われる。この勝利はまさにそうだったと山崎自身が後年振り返っている。

「当時決勝の試合時間は10分でしたが、5分過ぎぐらいでしょうか、相打ちで私の面が決まりました。二本目は戸田先生が私の右小手を狙ってきたのを切り落として面を打ったんです。勝つときは不思議なものですね。私は普段の稽古でも切り落としなんてできないんですから」(「剣道日本」1996年11月号)

 3回戦で対戦した矢野太郎は同じ45歳で、5年前の第11回大会優勝者だが、最初は中段に構えた矢野が上段に上げた後、切り落として面を決めている。それが公式戦で初めてできた切り落としだったという。同じ技が決勝でも出たのである。

 試合が終わって1週間後、12月8日付の「サンケイ新聞」が山崎を大きく取り上げているが、その中にこんな記述がある。

「関東剣士、関西剣士とでは、間合いのとりかたが違う。関東は狭く、関西は広い。ところが、これまでの優勝者をみると二十歳台の関西剣士が多い。(中略)山崎七段は、この間合いを、自分のペースに引っ張り込む研究をはじめた。
(中略)ジリジリと間合いを詰めて、自分のペースに追い込む山崎七段─これを離して、遠い間合いにしようとする若い選手。全選手が、追いつめられた状態で、山崎七段の一撃の“面”に倒れた」

 本人の話を元にした記事だろう。「関東は近間、関西は遠間」と、昭和の終わりに「剣道日本」編集部に入った私も聞いたことがある。関西は大日本武徳会本部武道専門学校の広い道場(武徳殿)で修行した剣士が多く、関東は狭い町道場で修行した剣士が多いから、と聞いた。が、すでにその頃、実際にはそんな違いは感じられなかった(京都大会に出るような戦前派の高段者にはあったかも知れないが、私には分からなかった)。昭和40年代には明確にその違いが残っていたのだろうか。

戸田忠男との決勝

七段になってから始めた上段

 山崎は大正2年、新潟県蒲原郡五泉町で生まれた。小学2年生の7歳のときから地元の尚武会という団体で剣道を始めた。高等小学校を卒業後2年間母校の剣道助手を経て町の養蚕試験所に就職し、昭和16年には明治神宮国民体育大会二十五歳以下青少年の部に新潟代表として出場している。その後入隊し昭和21年に復員。戦後は五泉町(昭和29年より五泉市)役場に勤務した。師である奈良俊夫と2人で早い時期から剣道の稽古を再開したが、スポーツ万能だった山崎は新潟で盛んだった相撲の大会にも参加し新潟県相撲協会の小結にランクされたという。

 剣道復活後、五泉尚武会も復活、山崎は少年指導にも力を注いだ。昭和36年には七段となり、昭和39年に開催が決まった新潟国体の強化選手となる。戦前に奈良俊夫から手ほどきを受けた上段を遣ってみようと思ったのはこの頃、162㎝の小柄な自分を大きく見せるため、そして動きの早い若い選手を打ち込むには中段からでは遅すぎると感じたためだったという。東京高等師範学校卒で新潟県チームのコーチだった占部誠に相談し、上段を勧められた。

 39歳で初めて全日本選手権に出場した昭和37年は、2位となった片山峯男(熊本)に2回戦で敗れた。その年から昭和42年まで6年間で5回の出場を重ね、昭和41年の第14回大会ではベスト8に進出している。

 昭和39年の新潟国体教員の部では優勝を果たしたが、決勝では自身は伊保清次(東京)に敗れている。身長162㎝(山崎)と183㎝(伊保)の相上段対決だった。伊保に敗れてから、週末は講談社野間道場、皇宮警察など東京の道場に通って稽古するようになった。ランニングや野球、テニス、卓球なども足腰のトレーニングとして実践していたという。

 優勝直後のサンケイ新聞(12月2日付)には、山崎には120人以上の弟子がいることを紹介した上で「みんながどんなに喜んでくれるかと思うと、ただそれだけでうれしい。ほんとうの優勝の喜びは、あす新潟に帰ってから、じっくり味わいます」とコメントしている。

 12月2日に山崎が帰郷した様子を、「五泉市民新聞」(12月3日付)が次のように伝えた。

「上野発午前九時過ぎの第二佐渡で帰泉、優勝旗や数々の勝杯をみやげに、試合出場と同じ防具をつけて駅をおり、二百数十人の歓迎陣にあいさつし、剣道のモサらしく、下駄ばきで駅前、本町をパレード、市役所についた。市役所前広場でも市職員のほとんどや、市民が出迎え、マイクであいさつ……」

 私が山崎を取材したのは一度だけである。平成8年に「上段の名手に聞く上段攻略法」というテーマで話を聞いた。話は淀みがなく丁寧で理路整然としており、偉ぶったところがまるでなく、剣道の先生というよりも田舎町の普通の市民、言い換えれば「気のいいオジサン」という印象が残っている。そして道場での写真撮影を多くの仲間や教え子が見守っていたような記憶がある。

 警察官でも教員でもない、つまり剣道界のエリートではない市井の剣道愛好家の優勝は、これ以降ない、と言っていいだろう。山崎は国体には31回も出場しており、新潟県を代表する剣道選手であったことは間違いないのだが……。

 山崎は平成18年8月3日に逝去した。

五泉市での祝賀会の写真と思われる

警察の精鋭と実業団の強豪剣士が上位に

 2位となった戸田忠男(29歳)は、東洋レーヨンの滋賀から東京に転勤になって初めて東京予選を突破、4度目の決勝だったが3度目の優勝にはあと一歩届かなかった。

 戸田に敗れて3位の松葉忠文(岐阜)は25歳の警察官。「讀賣新聞」は「松葉(岐阜)も二十五歳の若さにまかせてあばれまわったが、やや風格を欠いた」と評している。この後3度本大会に出場し、令和6年現在は岐阜県剣道連盟副会長を務めている。

 同じく3位の野沢治雄(30歳)も警察官で、埼玉県の選手として初の3位入賞だった。指導者として活躍し埼玉県剣道連盟会長も務め、平成27年に逝去した。

 山崎に準々決勝で敗れた幸野実(28歳)は秋田商業高校から神奈川県警へ進んだ選手。3回戦では2年前の優勝者千葉仁(東京・24歳)を破った。2年ぶり2回目の出場で、前回もベスト8に進んでおり、この翌年の17回大会で3度目のベスト8となった。令和6年現在、神奈川県剣道連盟会長を務めている。

 ベスト8は幸野のほか、前年優勝の堀田國弘(兵庫・42歳)、小林三留(大阪・31歳)そして池田健二(東京・26歳)だった。

 すでに警察で技術吏員の立場にあった堀田は、準々決勝で戸田から面を先取するも、小手を二本奪われ逆転で敗れた。

 4年ぶり3回目の出場だった小林は、初出場の第11回大会(昭和38年)に3位入賞を果たしている。この昭和43年の全国警察剣道大会(団体一部)で準優勝した大阪府警の大将を務め、翌年も大将として同大会で優勝、さらに全国警察選手権大会(個人)も制覇と、選手として油が乗り切った時期だったが、この大会は準々決勝で松葉に不覚を取った。

 池田は玉竜旗3連覇、インターハイ個人優勝、全日本学生選手権優勝など学生時代に輝かしい記録を残した選手。卒業後に入社した福岡の西日本銀行勤務から転職し、東京のゼネラル石油に勤務していた。東京都予選では、戸田忠男、桑原哲明、千葉仁と3人の全日本選手権優勝経験者を破って1位となり2回目の出場を果たした。大会の下馬評でも優勝候補にもあげられていたが、足のケガがあって力を発揮できず、野沢に敗れた。その後、池田は福岡に戻って如水館を指導、少年剣道指導者として何度も日本一になっている。

 後に範士九段となった中西康(広島)は46歳でこの大会初出場を果たし、1回戦で甲斐清治(宮崎)を破ったが、2回戦で45歳の矢野太郎に敗れている。前年の40代の出場選手は6人、この年は山崎、中西、矢野、堀田、そして野口直吉(山形・41歳・会社社長)の5人が出場していた。

 翌年からは20代の優勝者が8年続き、完全に戦後派が大会の主役となる。最年長優勝者の山崎を最後に、現在(令和6年)に至るまで40代の優勝者はいない。「明治百年」に当たるこの年、剣道界では戦前派から戦後派へのバトンタッチが完了したと言えよう。

閉会式で表彰を受ける

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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