第8回全日本剣道選手権(1960) 21歳の若武者が剣道界に新しい風を起こす

全日本選手権物語
第8回全日本剣道選手権大会で優勝した桑原哲明

 昭和35年(1960)、全日本剣道選手権大会には最初の大きな波が訪れた。それまで7回の大会ではすべて30代、すなわち戦前に剣道を経験していた剣士が優勝していたが、初めて戦後派の20代、それも弱冠21歳の優勝者が誕生した。延岡市にある旭化成の社員だった桑原哲明(宮崎)である。

 奇しくも同じ11月27日に、当時関脇だったのちの大横綱大鵬(当時20歳)が九州場所で初優勝を果たしている。翌日の「日刊スポーツ」は大鵬と桑原を並べて「日本晴れ、20代の二覇者」という見出しを付けた。「剣道界のヌーベルバーグ」という見出しを付けた新聞もある。ヌーベルバーグ(新しい風)とは、1950年代後半からのフランスで従来とは異なる手法により映画を制作した若い監督たち(あるいはその映画)を指す言葉で、この時期、例えとして他の分野でもよく使われた。

 桑原の21歳(9カ月)という最年少優勝記録は、2014年に竹ノ内佑也(21歳5カ月)が優勝するまで半世紀以上更新されなかった。

 桑原の試合結果は以下の通りである。戦前派のベテラン勢を次々に破っている。

1回戦 桑原 メコ─ 谷鐐吉郎(愛知・40歳)
2回戦 桑原 コ─ 園田政治(大阪・33歳)
3回戦 桑原 メ─ 滝沢栄八(北海道・43歳)
4回戦 桑原 コ─ 川崎道男(佐賀・32歳)
準決勝 桑原 コ─ 大浦芳彦(福岡・35歳)
決勝  桑原 メ─ 浦本徹誠(大阪・35歳)

 日刊スポーツは以下のように書いた。

「一回戦から決勝戦までメン、コテを各四本とり、逆に相手からは一本もとられない完全優勝をとげてしまった。鋭い出足で体ごとぶつかり相手がひるむところをメン、コテとスピーディーな連続わざで圧倒していた」

 中野八十二八段(全剣連理事)の『技術的な欠点はいくらでもあるが恐れをしらない度胸と若さが理屈に合わない強さをみせている。全く新しいタイプの剣道といえよう』という評価も紹介されている。地元の日向日日新聞では、宮崎県剣道連盟会長の末永純夫がこう記している。

「このころ(三回戦)からようやく桑原が観客の目をひきはじめた。この時までは正直なところ、ファンはほとんど桑原を知らなかった。(中略)桑原の態度は純真そのもので、相手がころぶと手をかししないを落とすとひろってやるなど、ファンにも好印象を与えて晴れの決勝に進出した」

 なお、日刊スポーツには「勝っても負けても表情を変えなかった従来の選手と違って優勝の瞬間おどりあがって喜んだ桑原選手」という記述もあった。後年の「剣道日本」の取材で桑原は「決勝の一本は胴に行って浦本先生が竹刀を下げて防ごうとした瞬間に飛び上がってひき面でした。旗が上がった瞬間、メーンといいながら何度か飛び上がってしまった記憶がある。今だったら残心なしで取り消されるでしょうね」と苦笑していた。時代を感じさせるエピソードではある。

20代の出場選手は2人だけ

 この大会出場選手の内訳は50代が1名、40代が22名、30代が29名。20代は桑原と29歳の佐藤博信(東京・警視庁)の2人だけだった。佐藤博信は戦前台湾で少年時代を過ごし、剣道指導者だった父に手ほどきを受けて終戦までに10年近くの剣道経験があった。剣道復活から9年、8回目を迎えた大会だったが、戦後に初めて竹刀を握った選手は桑原1人だけだったことになる。

 この翌年の第9回大会には、桑原と同い年の戸田忠男、1学年下の惠土孝吉が出場し、惠土が3位、戸田がベスト8に進出する。桑原の優勝が全日本選手権の世代交代の火蓋を切った。

 大会前に優勝候補にあげられていたのは、前年2回目の優勝を果たした中村太郎(神奈川・39歳)、その決勝で中村に敗れた大浦芳彦(福岡・35歳)、2年前に優勝を果たした鈴木守治(愛知・39歳)、さらには伊保清次(東京・40歳)、大阪府警の中心選手である浦本徹誠(35歳)、園田政治(33歳)らだった。大阪府警はこの年10月の全国警察剣道大会で優勝を果たし、浦本が大将、園田が三将だった。

園田は2回戦で桑原に屈し、当時としては長身の178㎝で上段をとった浦本も、168㎝の桑原に敗れて2位に留まった。

 第1回大会で警視庁の阿部三郎が2位となるなど、大会初期から警察官は強さを見せ、多くの選手が出場してはいたものの、現在のような他の選手達との力の差はなかった。この8回大会を終えた時点で警察官の優勝者は神奈川県警の中村太郎(2回)だけ。警視庁の選手の優勝は第13回大会(1965年)の西山泰弘、大阪府警の選手の優勝は第25回大会(1977年)の小川功まで待たなければならない。一方で会社員の優勝は珍しいことではなく、桑原は第2回の小西雄一郎(西日本鉄道)、第5回の森田信尊(三菱鉱業)に続き3人目である。

 この年から3位決定戦が廃止され、3位が2名となった。桑原に敗れて3位の大浦芳彦は上段の名手として知られ、第1回大会にも出場しこの大会が4回目の出場だった。準々決勝は中村との前年決勝の再現となり、大浦がリベンジを果たしている。

 もう一人の3位蓮井肇(兵庫・43歳)は自衛官で3回目の出場、過去2回は東京から出場している。ベスト8には中村太郎(出場5回目)のほか、谷川猛美(香川・40歳・出場4回目)、小平初郎(長野・40歳・出場4回目)、川崎道男(佐賀・32歳・出場2回目)が名を連ねている。

 伊保は3回戦で蓮井に敗退、2年前の優勝者である鈴木守治は1回戦で西村一夫(北海道・37歳)に敗れている。鳥取県代表の谷口潔(38歳)は、二刀で出場し1回戦で中村に敗退。東京大学卒の会社員である谷口は、本大会に初めて二刀で出場した選手と思われる。

 なお、会場は東京体育館。観衆は新聞により7000人、または8000人となっている。

閉会式にて

大家を師範に招いた旭化成の剣道部

 桑原はこの大会ではダークホースだったが、無名の選手だったわけではない。若松市(昭和38年に合併して北九州市)の桑原四兄弟は高校時代から名を知られていた。僧侶だった父が大の剣道好きで、四人の子にも剣道をさせた。哲明が竹刀を握ったのは中学2年生というから、昭和27年、剣道が復活する前後のことである。若松高校では国士舘出身の山崎繁の指導を受け、現在の玉竜旗大会(当時は全九州高校剣道選手権大会、西日本高校剣道大会)で大将を務め2年連続準優勝し、スカウトされて旭化成工業株式会社(当時)に入社、宮崎県延岡市の事業所に勤務する。

 旭化成では戦前から剣道が盛んで、戦後も剣道は「重点種目」となっており、大日本武徳会武道専門学校の第1期生で、戦前は同校の教授を経て朝鮮総督府剣道師範を務めた近藤知善(のち範士九段)が師範を務めていた。剣道部は30名程度の本部員と100人程度の支部員とに厳密に区別され、本部員は勤務は7時半から15時半までで、16時から18時までが稽古の時間だった。

 桑原が優勝した翌年、昭和36年に旭化成は事業の失敗でスポーツ活動を縮小、柔道、陸上などが重点種目として従来通りの活動を許されたが、剣道は一般種目に落とされ単なる社内の同好会となった。

 桑原は後年、「剣道日本」の取材に答えて桑原はこんなふうに語っている。

「選手権で勝てたのはやっぱり若さですね。(他の選手とは)10歳違いますから。剣先が触れるか触れないかの遠間から打てるバネがありましたから。僕の一足一刀が他の方々の一足一刀より遠かったということでしょう」

 この年、桑原は1年間で40数試合に出て、敗れたのは東洋レーヨン(現在の東レ)の白井教雅選手に屈した1試合だけだったそうだ。

 新聞各紙はニューヒーローの誕生を称賛していたが、専門誌には辛口のレビューも見られる。雑誌『武道評論』から引用する。

「理合の格のと云っても勝たねば理も格も問題にならない。そこに本大会のミソがあるのだが、剣道の本質を単なるスポーツ化に押し流す弊害がないともいわれまい。常に立派な稽古をしていながらかかる試合となると鷺と烏の睨み合いか、闘鶏の首を絡んだような試合が多かったのは勝つためとは云え、素人目なら兎も角、玄人目では決して芳しいものでない。若冠桑原がその虚を縫って優勝したことは確かに称賛にあまりあるが、一方桑原を食い止めるだけの剣士がいなかったわけでもあるまい」

 同誌の決勝についての記事を見ると、「つばぜり合い、分れの注意で間合をとる」「またしもつばぜり合い注意」「つばぜり合いの連続、分れの注意」などの記述が目立つ。だが桑原の戦いぶりには称賛を送り、桑原ではなく、戦前派の剣道家たちがこの試合になると勝つためにスポーツ化した剣道になっていることを批判している。「スポーツ化」「当てっこ」という批判が強くなるのはもっと後の昭和40年代以降だが、それはスポーツ剣道をする新しい世代が現れたのではなく、以前から剣道をしていた人たちの剣道が変質していったということなのかもしれない。

 桑原の戦いぶりは1試合を除いて一本勝ちであり、準々決勝は延長2回、決勝も延長1回の勝利だった(当時、準決勝と決勝の試合時間は10分)。前述の大浦対中村の準々決勝は延長5回、20分に及んだ。第1回と比べると、早くも試合時間が長時間化する兆しを見せている。

桑原は翌年の第9回大会は3回戦で小沼宏至(東京)に敗退、その2年後の昭和38年(1963)には福岡から出場した兄・哲哉と兄弟同時に檜舞台を踏み、揃って準々決勝に進むが、2人ともベスト8止まりだった。その後東京に転勤になり東京都予選に挑むも出場は叶わず、宮崎に帰って昭和43年に4回目の出場(1回戦敗退)、さらに昭和53年、39歳のときに11年ぶりに出場を果たし、本大会でも3回戦まで駒を進めた。

桑原(右)と浦本の決勝。会場は東京体育館。審判員の佐藤忠三の和装も印象的だ

優勝=桑原哲明(宮崎・21歳)
2位=浦本徹誠(大阪・35歳)
3位=大浦芳彦(福岡・35歳)、蓮井肇(兵庫・43歳)
ベスト8=中村太郎(神奈川・39歳)、谷川猛美(香川・40歳)、小平初郎(長野・40歳)、川崎道男(佐賀・32歳)

2024年9月2日記

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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