2万人を超える観客を集めた、昭和31年の第3回全日本東西対抗剣道大会

昭和の剣道

 冒頭の写真を初めて見たときの衝撃は大きかった。昭和31年(1956)4月29日に開催された、第3回全日本東西対抗剣道大会の写真である(第1回全日本薙刀選手権が同時に行われており、写真は薙刀演武の場面。手元には薙刀の写真しかない)。

 現在東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっている宮城球場に、剣道大会を見るために「二万余」の観衆が集まった。今の剣道ではとても考えられない多数の観客が試合を見守っている。

 4月29日の河北新報夕刊では、一面トップ、紙面の4分の3ほどを使って大会を報じている。全日本剣道連盟と河北新報社の共催だったこともあり、破格の扱いである。記事を引用しながら改めてこの大会を振り返ってみたい。(以下「」内は河北新報より引用)

「宮城野原頭に豪華な絵巻 第三回東西対抗剣道大会開く」「場内は興奮のうず 各種の形に多大の感銘」「妙技に酔う観衆二万」といった見出しが踊っている。

「ゴールデン・ウィークの初日、青葉城下の人気は宮城野原の剣道大会に集中した。風はつめたかったが空はあくまで晴れ上り、球場のスタンドを埋める剣道ファンは二万余。新しいスポーツとして復活した剣道の前途を祝うかのように全東北を挙げての声援は終日宮城野原頭をゆるがせた」

 ネーミングライツにより「楽天モバイルパーク宮城」となっている宮城球場は、改装を重ね現在3万人以上を収容するが、宮城球場時代の収容人数は28000人とされている。外野席が芝生だったこともありこの数字は正確ではなく、実際は2万人程度だったという資料もある。掲載された写真を見る限り椅子のある内野席はほぼ満席で、スタンド最上部に立ち見の人さえいる。ただグラウンド内にも観客がいるので、外野席までは埋まっていなかったかも知れない。

 では、一体どういう人たちが見に来たのだろうか。

「この日開場を待ちかねた観客の群れは早朝からつめかけた。中でも熱心なファンは朝五時ごろからチラホラ行列を作り始めた。開場の八時には行列は広場を横切って表の道路までえんえんと続いた。とくに両側の内野席は団体の小・中学生で超満員、聞き覚えた郷土選手の名前を連呼してはしゃぐ豆ファンたちは試合開始前すでに二千近くを数えた」

 2万人を超える観客がすべて剣道をしている人ではないだろうと私は思う。少年剣士は上の記事のように(後でもっと増えるにしても)2千人程度であるし、戦後の空白期を経て剣道が復活してまだ3~4年しか経っていない。東北では復活後初めての大きな大会だったとはいえ、剣道をしている人だけで2万人も集まるとは思えないのだ。戦前に剣道をしていた人もいるだろうが、単純に剣道に興味がある人、友人に誘われて来た人など、剣道をしない「剣道ファン」も相当数含まれていたのではないだろうか。

「スタンドの中に目だったのは郷土選手の応援団。宮城県角田町や伊具郷友会の萱場照雄選手後援会がこの朝バス五台をつらね二百余人乗込んできたのを初め、河南剣道連盟の乳井義耀選手後援会、黒田剣道同好会の堀籠敬蔵選手後援会、遠田剣友会の高橋要蔵選手後援会、塩釜剣道連盟の沼田定男選手後援会などが大挙して応援にはせつけ『祈必勝』ののぼりがスタンドに十余本、郷土選手の奮闘を祈って風にはためいていた」

 これらの「選手後援会」の人々は、剣道をしている人だけではないような気がする。

なぎなたも大人気だった

 さて、この大会は第1回全日本薙刀選手権大会との同時開催だった。

 薙刀は戦前、大日本武徳会の傘下にあり、武徳祭大演武会では、剣道、柔道、弓道などとともに演武が披露されていた。京都大会から全日本剣道演武大会と名称を変えた現在もなぎなたの演武があるのは、その流れを引き継いでいる。戦後、全日本剣道連盟が開いた最初の大会である昭和28年5月の第1回京都大会でも、薙刀の演武が行われた。この時点では薙刀も全日本剣道連盟(全剣連)の傘下にあった。しかし昭和30年2月に全剣連より独立して全日本薙刀連盟を結成する方に舵を切り、同年5月に全日本薙刀(なぎなた)連盟が発足している。「なぎなた」と平仮名表記にしたのは昭和33年のことだ。

 しかしながらこの昭和31年の第1回全日本薙刀選手権大会から33年の第3回大会まで、全日本薙刀選手権大会は全剣連の主催となっていた。そのあたりの詳しい事情は分からないが、独立して大会を主催するだけの金銭的、人的な環境が整っていなかったということなのだろうと推察する。

 まず第一部として薙刀選手権が行われ、終わったのが11時50分だったと記されている。試合前に天道流薙刀、直心影流鎖鎌、直心影流薙刀の形演武があった。その中で87歳の園部秀雄範士(女性です)が、二人に体を支えられて入場しながら、凛とした演武を見せ拍手を浴びたことが報じられている。

「形が終わるとまた二人に体をささえられて退場したが、武道一筋に生きたこの老範士の姿は、拍手を送る人々の感動をよんでいた」

「薙刀の試合は初めて見る者が多く、珍しいので大人気。(中略)大和田選手のスネがまず決まり、ワッとかん声がわく」

 薙刀も大いに会場を沸かせたようだ。

この写真も薙刀。選手権大会の試合の場面である

64試合中55試合は決まり技二本以上

 東西対抗大会の結果については翌30日の朝刊に掲載されている。やはり一面トップ四段分ほどの記事と大きな写真で結果を伝え、中面で全試合の決まり技を掲載するなど、詳しく報じている。

 東軍の4人目の榊原正が10人抜き。3年前の第1回全日本選手権優勝者である。これで東軍が大きくリードするが、西軍の杉江憲が7人抜きで挽回。そして西軍五将の中倉清が東軍の大将乳井義耀まで9人を抜いた。

 この大会が抜き勝負として行われたのは第3回にして初めてのことだったが、抜き勝負の面白さを充分に堪能できたことだろう。ちなみに抜き勝負は第24回大会までに11回、ほぼ半分の大会で採用された。人気があったのだろう。しかし24回大会で西軍が不戦者19人(35人の選手のうち半分以上)で勝利という大差で勝ってしまったのを最後に、採用されなくなった。

 後に「東西対抗の鬼」と呼ばれた中倉清は、河北新報の紙面で次のように語っている。

「徹頭徹尾上段から攻めたのが成功した。得意は上段からのヌキ胴だ。調子がよかったせいかこの捨身戦法が面白いようにきまった」

 中山博道に学んだ中倉の強さは『鬼伝』(スキージャーナル刊)に詳しい。晩年の中倉範士九段の立合を京都で何度か見たことがあるが、現在の八段クラスとは一線を画す、自由自在に竹刀を操り次々に技を繰り出す剣風だった。同じ年代でも多くの剣士が中心の攻め合いから少ない手数で勝負する剣道をする中で、異彩を放っていた。

 中倉範士のような剣さばきをする人が淘汰されつつあるのも、剣道人口が減っている一つの要因だと私は思っている。減っているのはそういう剣道では昇段できないからである。知人が大学生に中倉範士の立合の映像を見せたら、「この人は初段ですか、二段ですか?」と感想を述べたそうだ。

 もう一つ、近年の剣道離れの理由、逆に言うとこの東西対抗が面白かったに違いないと考えられる理由がある。

 榊原正の10人抜きの内容を見ると、その10試合すべてで二本を奪っており、そのうち二本対一本で勝ったのが3試合。延長となったのは1試合だけである。

 中倉清の9人拔きでは9試合中8試合で二本を奪い、一本勝ちが1試合だけ、相手に一本を許したのは1試合のみで、延長もその1試合のみだった。

 試合時間は5分だったと思われるが、現在の試合と比べて有効打突がはるかに高い頻度で生まれていたことがわかる。延長になることも少なかった。

 大会全体の数字は以下の通りである(全64試合)。

二本対〇本 39試合
二本対一本 16試合
一本勝ち 9試合
時間内での決着 58試合
延長での決着 6試合

 比較のために昨年(令和5年)の第69回全日本東西対抗大会の数字を以下に挙げる(全40試合)。

二本対〇本 7試合
二本対一本 2試合
一本勝ち 15試合
時間内での決着 20試合
延長での決着、または引き分け 20試合

 圧倒的に現在の方が技が決まる頻度が少ない。一時期よりは減ったが、現在の全日本選手権はこの東西対抗よりも延長になる試合、一本勝ちともに多いだろう。

 そもそも現在の剣道は二本先取した者が勝ち、という勝負である。試合時間5分というのは、一本しか決まらない試合を延々と続けないために設けられた目安だろう。当初の想定は長くても5分で終わらせようということで、5分内に両者とも一本が奪えず延長になるというケースはあまり想定されていなかったのではないだろうか。

 第3回東西対抗では全64試合中55試合はどちらかが二本奪っての決着となっている。一本勝ちの9試合は例外的な決着だったとさえ言える。そして64試合中58試合が時間内に終わっている。延長は例外中の例外という認識だったのではないだろうか。延長となった6試合のうち4試合は一本ずつ取得しての延長であり、両者とも一本を奪えず延長となったのはわずか2試合しかなかった。

 ちなみに記事によれば東西対抗にかかった時間は5時間余、とある。5時間として300分、入出場を入れても1試合平均5分かかっていない。64試合という数は現在の全日本選手権(63試合)とほぼ同じだ。全日本選手権を1試合場で行っていた時代、朝8時40分に試合が始まって、(終わりの時間の記憶が曖昧だがテレビ放映に合わせ)17時?に終わる予定だったところが、試合時間が長くなり収まりきれなくなって、平成2年(1990)から2試合場となった。

 どんな競技、スポーツにも言えることだが、ポイント(得点)を取る瞬間が一番面白いし、記憶に残る。もちろんとくにサッカーなどポイントが入る機会が少ない競技は、目の肥えたファンにとってそこに至るまでの過程が面白いということはあるだろうが、少なくとも初めてその競技を見る人や、深く知らない人は得点シーンの姿を見て「カッコいい」「面白い」と感じるだろう。

 だから一本が決まる頻度が高かった昭和31年の剣道の方が、少なくとも一般の人にとっては面白かった、と言い切っていいと思う。

 だからこそこれだけの観客が集まった、というと結果と原因が逆になってしまうが、当時の剣道がそういうものだったからこそ集まったのではないだろうか。初期の全日本選手権などの結果を見ても同じように多くの技が決まっている。

 そして前述のように、大観衆の中に剣道をよく知らない人やにわかファンも多かったとすれば、この試合を見て剣道を好きになった、剣道ファンになったという人も多く、中には剣道を始める人もいたかもしれない。だからこそ、この後剣道人口が増え続け、昭和40年代から50年代にかけて少年剣道人口がピークに達したと私は考えている。

 もっと一本の決まる頻度が高くなり、多くの試合が5分で決着がつくような規則を研究する必要があると思う。具体策は今のところ思いつかないが。

観客が去った中での閉会式

新しい(スポーツとしての)剣道への期待

 もう一つ別の角度からの見方を示すと、大観衆は「新しい剣道」に期待して集まったのかも知れない。

 大会数日前(4月26日)の河北新報夕刊に、宮城県剣道連盟常任理事でこの大会にも次鋒として出場した堀籠敬蔵(のち範士九段)が、「新しい剣道」というタイトルで記事を書いている。

「剣道は元来刀剣を使用して先頭する技術を練磨するために起ったものである。それを行う人の目的は相手を殺傷することにあったが、スポーツとしての剣道は、そのような外部の目的に拘束された行動ではない。スポーツを行う者の心は、きわめて単純素朴な楽しさにある。すなわち剣道を行うことが楽しいから行うのである」

 違和感を持つ方が多いかもしれないが、これは戦後スポーツとして再出発した当時の、剣道関係者の共通認識だったといっていいだろう。さらに、

「従来の剣道においては、他のスポーツのように完備した競技規則ができていなかった。試合は高段者の審判にゆだねられて、そこには少しの客観的批判も許されなかった。ここに剣道活動を不明確なものとし大衆のよく理解できないものとされてきた理由がある」

 と述べている。残念ながら今もまったく同じことが言えるのではないだろうか。

 堀籠の文章は続く。だからこそ全日本剣道連盟は広く剣道専門家だけでなく一般の有識者の意見も聞いて慎重の上にも慎重を期して規則を作成した。「しかし、これで競技規則が完成されたのではなくこんご一層の研究が必要なのである。この競技規則が完成された時において、はじめて、近代化されたスポーツとして、剣道が確立する時であると考える」。

 その後何度か規則の改定はあったが、令和の今、それは完成されたといえるだろうか。そして少なくとも昭和50年の「剣道の理念」制定以降は「近代化されたスポーツ」とは別なものを目指しているように感じる。

 もう一つ付け加えておくと、最初の方で記事の中に、少年剣士たちが地元剣士の名前を連呼してはしゃいでいた、とあった。今なら「静かに!」「応援は拍手のみ」と注意されるだろう。平成何年か覚えていないが、ある県で行われた東西対抗で、小中学生は騒いだりして会場の雰囲気を壊すといけないので入場させないことにした、と旧知の地元の剣士がそっと教えてくれた。

一体誰に見せるために大会を開いているのか、と愕然とした(剣道連盟の中枢をなす偉い先生方に見せるため、ということだろう)。そんなことをしていたら剣道人口が減るのは当たり前だ。

タイトルとURLをコピーしました