第19回全日本剣道選手権大会(1971)、“静かなる上段”川添哲夫が学生剣士として初の頂点に

全日本選手権物語

 昭和46年(1971)12月5日に日本武道館で開催された第19回全日本剣道選手権大会では、学生剣士が初めて日本一の栄冠に輝いた。頂点に立ったのは国士舘大学4年の川添哲夫(東京・21歳)である。

 決勝は、2学年上で当時は栃木県警の警察官だった佐山春夫(栃木・23歳。2年後に教員となる)との対戦となった。ともに上段をとり、佐山は2年前の中京大学4年の時に全日本学生選手権大会2位で同年の全日本選手権に初出場、川添はこの年の全日本学生選手権大会2位で全日本選手権初出場と、共通点の多い2人であったが、剣風は“動”の佐山に対し“静”の川添と対照的だった。

相上段の決勝は場外反則3回で決着

 開始から2分40秒で佐山が小手を決めて先制する。当時、決勝だけは試合時間10分だったが、その後佐山が守りに入ってしまったことは傍目にも明らかだったようだ。「佐山が弱気になって1本を守り切ろうと後退する場面が多くなった」(「読売新聞」昭和46年12月6日付)、「消極的な佐山に反則」(「日刊スポーツ」同日付)などと報じられている。佐山自身も後年「3分ぐらいで先行して『いける』と思った時点で負けていたような気がします。気持ちが逃げていました」(「剣道日本」2013年4月号)と振り返っている。7分過ぎ(4分過ぎという記事もある)、川添が左小手を決め一本一本となる。そして9分過ぎ、それまでに二度場外反則を犯していた佐山が、ライン際の攻防で場外に出てしまい、反則一本によって優勝者が決まった。当時は場外反則3回で相手の一本というルールだった。

「1─1となってから、川添は二度場外をやっている佐山をラインぎりぎりまで押し、メンに飛び込むと佐山は場外に飛び出しあっけない反則勝ちとなった」(日刊スポーツ)。

 当日の川添の勝ち上がりは下記の通りである。
1回戦 川添 ココ─ 根本武雄(茨城)
2回戦 川添 コ─ 西出功(京都)
3回戦 川添 メ─ 安井博記(滋賀)
4回戦 川添 コメ─ド 白木英治(福岡)
準決勝 川添 コ─ 川井光男(東京)
決勝  川添 コ反─コ 佐山春夫(栃木)

 根本は茨城県警所属の29歳、西出は京都府警所属の31歳、安井は26歳で実業団の強豪、東洋レーヨン所属。教員で30歳の白木は、川添にとって国士舘大学の先輩にあたる。川井光男は警視庁所属の26歳。対戦相手はいずれも剣道選手としてピークに近い年齢の選手だった。

 「苦戦したのは準々決勝の白木六段(福岡)との一戦」と「日刊スポーツ」はレポートしている。「1─1の末延長一回、やっとメンを決めたが、動きの激しい白木だったため手を焼いたようだ」。

 一方「サンケイ新聞(同日付」は、「『準決勝がヤマだった』という川添は、ここで東京都大会の決勝に続いて川井を下した」と報じている。

 川添はこの時21歳で、第8回大会(昭和35年=1960年)の桑原哲朗と並ぶ最年少優勝だったが、厳密に言えば桑原は21歳9カ月、川添は21歳10カ月で、桑原の方が早い。その記録は半世紀を経た平成26年(2014)に21歳5カ月で優勝した竹ノ内佑也(筑波大学)によって更新される。

 川添は初出場で現役学生だったが、試合前から注目されていたようだ。試合当日の読売新聞(昭和46年12月5日付)に予想記事があるが、見出しには「注目の新鋭川添(四段)」と大きく書かれ、サブの見出しが「新旧交代あるか きょう全日本剣道」となっている。

 学生ながら優勝候補にまであげられたのは、東京都予選で優勝という結果を残したからだろう。2年前に二度目の日本一を達成していた千葉仁を破っている。決勝では前述のように千葉と同じ警視庁の川井を破ったと「サンケイ新聞」にあるが、大野操一郎(国士舘大学剣道部長)は、佐藤博信に決勝で勝ったと記憶していた。いずれにしても警視庁の猛者たちを制して東京都予選を制した。

 この時点までで、本大会における学生の入賞は昭和36年の惠土孝吉の1回のみである。それでも川添が優勝候補にあげられたのは、東京都予選の戦いぶりがよほど鮮烈だったのだろうか。

全日本選手権優勝を記念してパレードが行われた

上段を教えた父と、それに磨きをかけた師

 川添は昭和25年、高知県香美郡土佐山田町(現香美市)に生まれた。父である川添恵美は教員で、全日本選手権4回出場という実績を持っていた。中学入学当初は野球部に入ったがやがて剣道を始め、高知高校入学前後に一度中断した時期があったものの、復帰して2年の時にインターハイに出場し、団体戦でベスト8に進んでいる。優勝した九州学院高校に敗れたものの、その対戦でも川添は勝利し3勝1分という戦績で終えた。3年になると四国大会で個人優勝を果たす。インターハイで上位には進めなかった(団体ベスト16、個人ベスト8には進んでいない)が、優秀選手に選ばれている。

 父の恵美も上段の遣い手であったこともあり川添は高校時代から上段を取っていたが、国士舘大学に進んでからはそれを本格的に叩き込まれた。剣道部長の大野操一郎や師範の伊保清次の指導が川添の上段に磨きをかけた。 全日本学生優勝大会(団体戦)では国士舘大学1年生の時から選手として出場し、1年と3年の時に優勝を果たしている。

 昭和36年の全日本選手権を制した伊保は、東京高等師範学校の2年後輩である父恵美から、川添に上段を指導するように頼まれていたという。新入生がいきなり師範に対し上段をとったりすると批判を受けそうなので、全員に事情を説明した上で上段をとらせた。

「上段は必殺の剣であり、ライオンが獲物を狙うようにじっと構えたまま相手を威嚇し、一撃で仕留めるのが本来の姿で、昔はみんなそうだったんです。フットワークを使って前後左右に動き、何度も何度も打ちおろす上段がほとんどの現在、川添君は得がたい本格的な上段だったといえます」
と後に伊保は語っている。

 東京高等師範学校で高野佐三郎に師事した大野は、高野から教わった「正式の上段」を川添に教え込もうとした。最終学年となった昭和46年の全日本学生選手権大会では、川添は決勝で鳥巣健(福岡大)に破れ、団体戦の全日本学生優勝大会は準決勝で法政大に負けた。

「彼はグッと責められると思わず手を下げてしまう悪いクセがあって、鳥巣君にはそこでポコっと左小手を打たれ、法政との時も同じように打たれました。
その後で全日本選手権予選があって、それまでにクセを直そうと『攻められても絶対に手をおろすな。攻めてコテ・メンを打っていけ』と、繰り返し練習させたんです」
と大野は振り返っている(いずれも「剣道日本」昭和63年5月号)。

 川添の身長は178cmで、この世代としては長身選手だった。それまで18回の大会の優勝者15名で川添より背が高かったのは伊保清次(183cm)のみで、11人が160cm台である。

 川添は昭和63年3月24日、勤務する高知学芸高校の中国への修学旅行中に不慮の列車事故で生徒とともに帰らぬ人となる。全国の剣道関係者が悲嘆に暮れたニュースだった。

 当時「剣道日本」編集部に所属して3年目の私は、川添の追悼記事を書くように命じられた。前年に全日本選手権に出場した川添の姿は目にしていたがインタビューする機会はなかった。何人もの関係者に電話をかけて話を聞いた。今だったら「マスゴミ」と罵られそうなぶしつけな取材であったかも知れない。そのうちの一人から「もうほっといてくれませんか」と言われたのを今でも覚えている。

しかし、変な感想かも知れないが、この取材を終えて、剣道界に名が残っている人、話を聞いてみたい人には、進んで機会を作って話を聞いておかなければ、と強く感じたのを覚えている。老若男女を問わず、遅かれ早かれ人はいつかはいなくなってしまう、以後、この人に取材できるのは一期一会、これが最初で最後かも知れない、と心に言い聞かせながら私は仕事を続けてきた。

「スポーツ化」と上段の流行を危惧する声も

 第19回大会の3位はともに警視庁の選手だった。前出の川井と、準決勝で佐山に敗れ3位となった佐藤博信(東京)である。この時佐藤は40歳で、前年に引き続き3度目の3位だった。優勝には届かなかったが、後に明治村剣道大会(八段戦)を4回制覇する地力を見せ確かな足跡を残している。本大会初期には3年前の山崎正平まで40代の優勝者を4人輩出するなど、40代の入賞者が多く現れたが、現在までのところ佐藤が最後の入賞者(3位以上)となっている。

 ベスト8は前出の白木のほか、小坂達明(大阪)、山中茂樹(埼玉)、米屋(こめや)泰宏(山口)。教員の山中茂樹は川添と同じく国士舘大卒で上段をとる。当時27歳で前年に続いてのベスト8進出だった。大阪府警の小坂は10年後の第29回大会と第30回大会で2年連続2位となるが、この時は23歳で初出場。米屋は31歳でこれが最初で最後の出場だった。

 ベスト16には23歳の山田博徳(熊本・警察官)、27歳の忍足功(千葉・警察官)、前年3位で24歳の木村謙竜(和歌山・教員)らに混じって、出場選手中最年長、46歳の上段の名手・大浦芳彦が進出している。46歳の大浦は3回戦で40歳の佐藤博信に屈した。

 本大会で初めて学生剣士が大会を制したが、その後次々と学生が上位に進むということにはならなかった。昭和40年頃から警察官優位の傾向が顕著でベスト4のうち3名が警察官ということが何度かあったが、この19回大会も川添以外の3名は警察官だった。

 この昭和46年の全国警察大会で2位、前年には優勝している警視庁において、本大会3位入賞を果たした川井、佐藤とも決勝戦のメンバーには入っていない。佐藤はすでに選手を引退していただろうし、川井は準レギュラー的立場だったのだろうか。警視庁をはじめとする警察官優位の状況はすでに顕著だったと言えよう。

第19回全日本選手権大会開会式

 

さて、翌年20回を迎える本大会について、新聞報道には以下のような剣道の「スポーツ化」と上段の流行を憂う記事も見られた。

「大会を通じて若手が多くなって、鋭敏な反射神経と、それに見合う速いシナイさばきによる打ち合いがほとんどだった。これは剣道がシナイを打ち当てて得点する“スポーツ”に変わってきたからで、往年の“武道”からは次第に遠く離れてきていることを物語っている。また、とくに目についたのは上段に構える選手が非常に多くなったことだ。(中略)打ち合いの“スポーツ”からいったらシナイが遠くまで届く上段の方が得だからだろう。だが見ていて味気ないことも確かだ」(「読売新聞」昭和46年12月6日付)

 このような論調の記事が見られたのはこれが初めてなのではないかと思われるが、現在の調査状況ではまだ断言できない。もう少し新聞記事を精査してみたい。

2025年4月9日記

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
タイトルとURLをコピーしました