第4回全日本剣道選手権大会(1956)、撓競技の王者・浅川春男が一念発起、剣道でも実力を示す

全日本選手権物語
優勝した浅川春男

 第4回全日本剣道選手権大会は昭和31年(1956)11月18日に開催された。会場はこの年に落成した千駄ヶ谷の東京体育館に移った。以後第11回大会まで東京体育館で行われる。

 優勝を果たしたのは初出場の浅川春男(岐阜・37歳)だった。大正8年、岐阜県本巣郡山添村(現本巣市)に生まれた浅川は小学校高学年になって学校に剣道部ができて入部すると、ほどなく県下大会で優勝を果たす。岐阜農林学校から勧誘を受けて進学し、陸軍戸山学校の助教を務めた吉田清三郎の指導を受け、県下大会や大阪、愛知の大会で活躍した。昭和11年に卒業し18歳で小学校の代用教員となる。さらに教員の資格を取り、小学校や青年団で剣道の指導にも携わった。

 20歳で志願して軍隊に入り、軍でも剣道、銃剣道の指導に携わる立場となった。復員し撓(しない)競技が始まると積極的に取り組み、昭和25年に開かれた「第1回全日本撓競技個人選抜選手権並びに団体試合」では、個人、団体ともに優勝を果たす。昭和27年に福島県で開催された国体で初めて公開競技として行われた撓競技でも、一般男子の部で個人優勝している。

 戦後は生きるためにさまざまな仕事をしたが、剣道復活後は嘱託として母校などで指導。昭和27年には岐阜市徹明体育館講師となり、体育館の一室に居住するようになる。全日本選手権で優勝したときもそこに住んでいた。昭和28年には岐阜市警剣道教師となっていたが、剣道師範として一家を支えられる収入を得るためには全日本選手権のタイトルを取ることが必要と考えて、昭和30年には関東へ5か月間の武者修行に出る。そして翌年全日本選手権に初出場を果たした。

前年優勝の中村太郎を決勝で下す

第4回全日本選手権大会での戦いぶりは以下の通り。

2回戦 浅川 メメ─ド 高野武(神奈川)
3回戦 浅川 ドコ─コ 岩谷文雄(秋田)
4回戦 浅川 メ─ 小竹敏夫(栃木)
準決勝 浅川 メコ─ 嶽崎操(福岡)
決 勝 浅川 メド─メ 中村太郎(神奈川)

 初戦となった2回戦で対戦した高野武(神奈川)は高野佐三郎の修道学院で修業し、後年には九段となった剣士だが、この年が唯一の本大会出場だった。3回戦の相手岩谷文雄(秋田)は秋田高校をインターハイ優勝に導き、秋田県剣道連盟会長を務める剣士。この大会は第1回から出場し、このときが3回目。昭和41年には史上2人目の10回出場を果たした(1人目は徳島の下村冨夫が昭和39年に達成)。

 4回戦(準々決勝)で対戦した小竹敏夫(栃木)は武道専門学校卒、作新学院高校の指導者として知られる。

 準決勝で浅川に敗れ、3位決定戦で阿部三郎(東京)に敗れて4位となった嶽崎操(福岡・38歳)は実業団剣士である。森島健男(東京)、中尾巌(兵庫)ら実力者を下しており、「読売新聞」(昭和30年11月19日付)は「嶽崎選手の難剣は優勝候補だった森島、中尾選手を降したため浅川選手は力をセーブして優勝戦へ出場することが出来た」と評している。

 嶽崎は三菱化成工業株式会社黒崎工場(現三菱ケミカル株式会社九州事業所)に勤務していた。福岡県八幡市黒崎町(現北九州市)の三菱化成黒崎では、後に全日本実業団剣道連盟会長を務める林規や星野一雄らが、昭和21年か22年頃には社内の集会所で剣道を再開し、米軍の要望で剣道の演武を見せたりしていたという。昭和30年には、戦時中の昭和19年に明治専門学校に建てられた道場を移築し敬止館として開館した。嶽崎は大正7年鹿児島生まれ、戦前の経歴は不明でいつから三菱化成の社員だったかは分からないが、昭和33年の第1回全日本実業団剣道大会には三菱化成黒崎の中堅として出場、翌年の第2回大会には大将として出場しベスト8に進んでいる。全日本選手権にはこの年がただ一度の出場だった。その後、昭和47年に岐阜県大垣市に本社のある日本耐酸壜工業株式会社に招かれ、三菱化成を退職して日本耐酸壜剣道部師範に就任、長く務めたという、実業団剣士としては珍しい経歴の持ち主である。日本耐酸壜の本社は浅川の地元岐阜であり、すでに昭和43年に浅川が日本耐酸壜の師範となっていた。詳しいことは分からないが、浅川と縁がある剣士のようだ。

 決勝の対戦相手は前年優勝の中村太郎(神奈川)だった。中村は3回戦で長島末吉、準決勝では阿部三郎という警視庁の猛者2人を下し、準々決勝では中倉清(鹿児島)を退けるなど強豪との対戦が続く中を勝ち進んできた。前年優勝者が決勝まで勝ち上がったのは初めてのこと。

「お互いに太刀さばき早く、しばらくにらみ合っていたが中村が小手を打ってくるところをはずして浅川は連続面で一本先取、優勢に立った。
あせった中村がタイに持込もうと攻め立てたが決定的なポイントがあげられず浅川の逃切りなるかと見えた。しかし中村はツバぜり合いから右、左と面を打ちタイ。その後浅川がくぐるような体勢から胴を決めて初の優勝を決めた」(「報知新聞」昭和30年11月19日付)

 浅川は大会の1週間前に上京し、2日前には神奈川県警に稽古に行った。そこで中村太郎に稽古を申し込んだが、中村は応じなかったという。

「と言うのは、私が他の助教とやったら調子がよすぎたから、恐れをなしてか、どうしてか分からないが、太郎があのとき私とやって、たたかれれば、奮起して私に勝っただろう。私は負けたかも知れない。ここが宿命の別れ道である、と今考えております」(「剣道時代」1982年1月号)と、後年浅川は振り返っている。

“撓競技の浅川“と軽く見られて

 大会2日後の「岐阜タイムズ」が浅川を取り上げている。

「(撓競技では)一度も敗れたことがないというがその半面剣道界からは“しない競技の浅川”と軽くみられいままで新参扱いにされていた」

 撓競技に積極的に取り組んだ剣道家もいれば、まったく経験しなかった剣道家もいた。撓競技のしないは軽く、ポイント制であることなど本来の剣道とはかけ離れたものとして軽視、あるいは批判する人もいたようだ。しかしなんとか剣道を復活させようとして考案されたものであり、何年も経たずに剣道が復活したからといってそれを批判するのは筋違いだろう。浅川は同紙上にこんなコメントを残している。

「しない競技は、いま剣道界から批判もされているが私はしない競技が剣道に役立ったと思っている。この競技は常に剣道の掛りけいこで、剣道の基本動作になる。次から次に打って行く早技は目を養い(中略)、フット・ワークも相当によくなると思う」

 浅川の全日本選手権出場は翌年の第5回大会(1回戦敗退)が最後となる。昭和34年に雙柳舘浅川道場を開館、その後もさらに3箇所に道場を開き、多くの剣士を育てた。全日本剣道道場連盟では15年に渡って理事長、専務理事を務め全国の剣道発展に寄与した。

 浅川は剣道範士八段だけでなく居合道も教士八段となっている。やはり「撓競技の浅川」と呼ばれたことの反発で日本刀も遣えなければ、と考えて居合道も学んだと本人が書き残している。全日本居合道大会にも出場、最終的には居合道教士八段となっている。全日本剣道選手権優勝者で居合の段位を取得した選手はほとんどいないと思われる(調べきれてはいない)。少なくとも八段となったのは浅川だけである。

 2年ぶりに出場した阿部三郎(東京・37歳・警視庁)は3位決定戦で嶽崎を破って入賞。翌年の第5回大会も再び3位となるがそれが最後の出場となった。計4回出場して2位1回、3位2回、4位1回とすべてベスト4入りは見事な戦績。優勝する力は充分にありながら勝運に恵まれなかった剣士と言える。

 ベスト8(4回戦敗退)は前出の小竹のほか、中尾巌(兵庫)、中倉清(鹿児島)、宮地誠(北海道)。中尾は第1回から4年連続の出場だったが、嶽崎に敗れこれが最後の出場となった。最高成績は第2回大会の2位。

 中村に敗れた中倉は3回目の出場で、この年の第3回全日本東西対抗大会では相手の大将まで9人を抜く活躍を見せていたが、すでに46歳になっており、全日本選手権大会の頂点に立つことはなかった。

 宮地誠は大正9年岡山県生まれ、岡山医科大学を卒業した医師で、後年は範士八段となり、医師剣道連盟や国際社会人剣道クラブの役員、慈恵医大、防衛医大の剣道師範として東京で活躍していた。事情は分からないがこの時期は旭川にいて、昭和31年の第1回北海道段別個人選手権大会教士の部で4連覇するなど活躍、この年と翌年の全日本選手権に北海道から出場している。

 ベスト16(3回戦敗退)には、前出の岩谷文雄と同じく高校の指導者として実績を残した金子誠(福岡・福岡商業高校を指導)、横田亮二(長崎・長崎東高校を指導)らが勝ち進んでいる。前年に続きベスト16の高島覚恵(山口)や、警視庁の森島健男、長島末吉らの名前もある。前年に引き続きただ一人称号を持たない選手として出場した川上岑志(島根・五段)は、1回戦で敗退している

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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