2014年の全日本選手権準決勝で、結果的に優勝した竹ノ内佑也選手の二本目の面が、打突部位をとらえていないと話題になった。NHKのテレビ放映でも、剣道有段者であるアナウンサーが、打突部位をとらえていないことに言及していた。あるいは2017年の全日本選手権準々決勝で、内村良一選手が前田康喜選手に決めた一本目の小手は左小手に当たっていた。
全日本選手権の例をあげたが、こういった、打突部位をとらえていないのに一本となったという例は、剣道の世界ではごくありふれた出来事である。剣道をする人のほとんどが経験しているのではないだろうか。
打突部位をとらえていなければ誤審なのか。剣道をしている多くの人は、誤審ではない、あるいは誤審だとしても審判の判定を尊重すべき、と考えているだろう。「竹刀の打突部で打突部位をとらえること」は有効打突の必要条件である。しかし、研究者によれば、微妙なところを見極めるのは人間の目の能力の限界を超えているともいう。だから、「見えないのだから仕方がない」「そういう間違いも含めて剣道」「自分に隙があったのだから、当たらなくても一本」「審判員の判定を尊重し従うのが礼儀」といった考え方が一般的になっている。後でビデオで見て当たっていないから誤審だ、自分は負けていないと選手がみんな言い出したら剣道という競技は成り立たない。
剣道を長くしている人はそれが当たり前だと思っているかもしれないが、少し離れてみると、そのことは剣道の人気をそぐ原因、つまり剣道人口が増えない最大の原因になっていると私は思う。
たとえば相撲を初めて見る人に、「相手を土俵から外に出すか、倒せば勝ち」と教えれば、それだけで見て楽しむことが可能である。中には判定が微妙な場合もあるが、ほとんどは素人にもすぐに勝敗が分かる。それに対して剣道は、「面か胴か小手を打てば、あるいは喉を突けば一本」と知っていてもそれだけでは楽しめない。剣道をよく知らない人が試合を見て必ずといって口にする疑問は、「今当たったのにどうして一本ではないのか?」という言葉である。それは早すぎて当たったか当たっていないかが見分けられない場合もあるし、打突部で打っていない、刃筋が通っていない、気勢、姿勢が充分ではないといった条件が分からない場合もある。
でも後から映像をスローモーションなどで見て、部位に当たっていないのに一本となっている場合、どうして一本なのかと疑問を持ち、誤審であると考える。剣道をよく知らない一般の人ならば、それが普通である。それで剣道への「信頼感」がゆらぐ。「剣道ってカッコいいね」と言う人は多いのだが、そういうことによって「よく分からない」で終わってしまう。剣道をしている子どもの家族などには、自分が剣道をしなくても剣道の試合を見る「ファン」はいるが、何のゆかりもない人が剣道ファンになりにくい理由はそこにあると思う。
高校生、あるいは中学生やおそらく小学生でも、剣道をしている人は、当たっていない打突が一本になることがあるのも分かっている。しかし、それを受け入れられない剣士もいるのではないか。幼少時から剣道をしている人は受け入れられるかも知れないが、中学や高校から剣道を始めた剣士はどうだろうか。実際に、そういう判定をされたことが理由で剣道をやめた、という人を私は複数知っている。ある指導者からは、その子どもが「はっきりと数字で結果が出る競技がしたい」と言って陸上競技に転向したという話を聞いた。
大人になっても剣道を続けている人は、そんなことを何度も何度も乗り越えてきた人格者であるとも言えるのだが、それで剣道から脱落する人は少なくないと私は思っている。そういう理由で脱落した人たちにも、大人になってまた剣道をやろうと思う人はいるのだろうが、二度とやりたくないという人もいるに違いない。そういう人とは会う機会もないので分からないのだけれど。
さて、そういう誤審をなくすには、あるいは少なくするにはどうすればいいのだろうか。少し、他のスポーツを参考に考えてみたい。多くの競技では、近年ビデオなどを利用した判定が取り入れられている。剣道は武道であってスポーツではないのだから参考にならない、と思う人もいるかもしれない。だが、競技として優勝、準優勝……という結果を出す以上は同じだと思う。結果が大切ではないのだというなら結果が出ないような形で剣道の大会をすべきだと思う(勝敗をつけない演武大会のような)。
たとえばサッカーは中世に起源を持ち、1863年にロンドンで協会が設立され、試合規則の基礎を作っている。つまり剣道と同じように長い歴史を持っている。そのサッカーが機械による判定を取り入れたのは2012年、つまりごく最近のことだ。ボールがゴールラインを越えたかどうかが微妙なときに、それを機械で判断する。その後、反則や得点に関わる判定に迷いが生じたときはビデオで確認するようになった。
それらを取り入れるに当っては、「人間が判定するからこそ人間味があって面白い」「機械で判定するなんて味気ない」「審判も人間だから誤審もある。それも含めてサッカー」といった反対意見はあった。しかしそれよりも、より公平に正確に判定すべきという意見が強かったのである。あるいは首脳部がそういう意見を押し通したのかもしれないが。
テニスの例もあげておこう。テニスの原型は古代ローマやエジプトにもあったと言われるが、ルールが整備されイギリスで第1回目のウィンブルドン選手権が行なわれたのが1874年である。やはり歴史は長いが、ビデオ判定が初めて取り入れられたのは2006年だった。それと同時に選手が微妙な判定に対し、ビデオ判定を要求するチャレンジという権利(1セット3回まで)が認められた。このルール改正をめぐっては当時世界トップの選手だったロジャー・フェデラーらが反対している。彼はそんなことをしたら「人間味がなくなる」と主張した。
もし剣道にビデオや機械による判定を導入してはどうかと提案すれば、多くの人はフェデラーと同じことを言うのではないだろうか。世の東西を問わず、あるいはスポーツか武道かを問わず、人間のとらえ方は変わらないのだ。
「人間味がある」ということを大切にするのか、「公正さ、分かりやすさ」を追求するのか。剣道と同じように歴史の長い競技が、最近になって後者を選択している。それが世界的な流れといえるのだと思う。
スポーツに限らない。たとえば30年前の日本では、街中でタバコを吸いながら道を歩く人はたくさんいた。そしてタバコを道に捨てる人も少なくなかった。それを苦々しく思っていた人もいただろうが、「まあいいじゃないか」「まあ仕方ない」というのが世の中の空気だったと思う。もっと前、私が高校生の頃にはJRの列車は全席でタバコが吸えたので、電車通学の友人が「前に座ったオヤジのタバコの煙が嫌だ」と言っていたのを記憶している。
あるいは、20年前ぐらいだろうか、道路交通法の改正がきっかけだったと思うが、それ以前は路上駐車は当たり前だった。5分以内の荷物の積み下ろしは駐車違反にならないと自動車教習所で習った。今はどんな短い時間でも運転者が車を離れれば違反になる。これなどは個人的には行き過ぎだと思うが(車は物や人をある場所からある場所に運ぶ道具なのだから、停まる必要は絶対に生じるわけで)、とにかく少なくとも東京では路上駐車をほとんど見かけない。あるいは、こんなことを言ったら今の常識では非難されるが、多くの人が酒を飲んで運転していた。私自身も経験はあるし、故郷である地方都市で友人たちと飲むと、友人たちはそれぞれ車で来て車で帰っていった。つい30年前ぐらいの話である。
そういう時代が良かったということではない。ルールやマナーは時代とともに変わる、あるいは、かつてはルール上では良くないことでも「まあいいじゃない」と許されている範囲が今より大きかったものが、ダメなものはダメというふうになってきている。それは世界的な傾向であり、路上駐車の件などは日本は極端かもしれないが、タバコに関しては先進国の中ではまだ許容範囲が広いほうだろう。大げさに感じるかもしれないが、人類、もしくは文明がそういう方向に進んでいるのだと私は思っている。そしてそれが逆戻りすることはないだろうと。不倫の問題などモラルに関することで、SNSやネットの発達により世の中が不寛容になってきている、という傾向もある。それらの影響もあるだろう。生きにくい世の中になってきたとは思う。
スポーツの判定をより厳密にしようというのも、そういう流れの一環だと私は考える。剣道は日本独自の文化であり、武道であるといっても、そういう流れを無視できなくなる日が来るのではないと思う。あるいはそれを無視していては、人々からそっぽを向かれる日が来るのではないかと思う。
そして「間違いがあるのが人間らしい」といっても、剣道は(機械やビデオ判定を導入する前の)サッカーやテニスと比べても、間違いが多すぎる、というのが私の正直な感想である。誤審を少なくすることが、剣道人口を増やすことにつながると私は思っている。そのためにできることがあるなら、少なくとも試してみるべきだと思う。
(2020年1月記)