観の目見の目

令和6年度の高校剣道人口は下げ止まりの兆候も見えたものの、まったく楽観はできない

剣道人口減少の指標として、高校剣道部員数の推移について『剣道の未来』(2021年刊行)に詳しく書いた。その後の推移について2年前にこのブログでも書いたが、最新の2024年度の数字を紹介したい。  結論から言うと、2024年度(令和6年度)の...
美しき道場

解体の危機に瀕していた京都支部武徳殿は、築100年を超えて見事に蘇った

京都市の東山近くには平安神宮に隣接して武徳殿があり、現在も全日本剣道演武大会などで使用されている。これは大日本武徳会本部の武徳殿として、明治32年に落成した道場である。  その京都市にはもう一つ武徳殿があった。大正から昭和初期の古地図を見る...
全日本選手権物語

第16回全日本剣道選手権大会(1968)、市役所勤務の上段剣士が、45歳の最年長記録で優勝

第16回全日本剣道選手権大会は昭和43年(1968)12月1日に行われ、45歳の上段剣士・山崎正平(新潟)が頂点に立った。これは令和6年現在も最年長優勝記録として残っており、かつ最後の40代優勝者となっている。また新潟県所属の選手では3位以...
全日本選手権物語

第14回全日本剣道選手権大会(1961)、上段の名手・千葉仁が22歳で頂点に

第14回全日本剣道選手権大会は昭和41年(1966)12月4日に開催され、東京都代表、警視庁所属、22歳の千葉仁(まさし)が初出場で初優勝を飾った。千葉はその後2度の優勝を重ねて史上初の3回優勝を果たし、上段ブームの象徴として昭和40年代の...
全日本選手権物語

第10回全日本剣道選手権大会(1962)、戸田忠男が優勝。上段ブームの幕が開く

昭和37年(1962)12月2日に開かれた第10回全日本剣道選手権大会を制したのは、当時23歳で五段の上段剣士・戸田忠男(滋賀)だった。  戸田は前年の昭和36年に慶應義塾大学を卒業して東洋レーヨン(現東レ)に入社、滋賀事業所に勤務していた...
美しき道場

埼玉武道のメッカだった浦和武徳殿は、お化け屋敷として天寿をまっとうした

浦和武徳殿は、『浦和総覧』(昭和2年発行)によれば明治42年(1909)12月、大日本武徳会埼玉支部として浦和町に竣工した。『埼玉県剣道連盟三十年史』(昭和59年発行)では、明治44年(1911)竣工となっている。  京都の大日本武徳会本部...
全日本選手権物語

第8回全日本剣道選手権(1960) 21歳の若武者が剣道界に新しい風を起こす

昭和35年(1960)、全日本剣道選手権大会には最初の大きな波が訪れた。それまで7回の大会ではすべて30代、すなわち戦前に剣道を経験していた剣士が優勝していたが、初めて戦後派の20代、それも弱冠21歳の優勝者が誕生した。延岡市にある旭化成の...
全日本選手権物語

第1回全日本剣道選手権(1953) 「誰にも親しめる剣道として…空前の試み」

記念すべき第1回全日本剣道選手権大会は昭和28年(1953)11月8日、東京の蔵前国技館で開催された。『剣道百年』(庄子宗光著・時事通信社)にはこの大会の意義が次のように記されている。 「本選手権大会こそ新発足後の剣道連盟が世に問う最大の大...
観の目見の目

柔道とは異なりオリンピック種目化を目指さなかった剣道。では何を目指すのか

別記事「パリオリンピックで阿部詩選手の号泣を見てふと思った、柔道と剣道の人口が減る理由」でも少し触れたが、パリオリンピックの柔道競技に関して、SNSでは「こんなものは柔道ではない」「JUDOではなく日本の柔道が見たい」「日本は国際柔道連盟を...
観の目見の目

パリオリンピックで阿部詩選手の号泣を見てふと思った、柔道と剣道の人口が減る理由

パリオリンピックの柔道があとは最重量級と団体戦を残すだけ、というタイミングで書いている。  今回のオリンピックでは審判員の判定やルールそのものについて、さまざまな疑問や意見がネット上を飛び交っている。その問題については少し落ち着いてから書く...