第9回全日本剣道選手権大会は昭和36年(1961)12月3日、東京体育館で開催された。前年の第8回大会では初めて20代の桑原哲明(宮崎)が優勝したが、一気に世代交代が進んだわけではなく、この第9回大会に出場した20代の選手はわずか4名だった(前年は2名)。前年優勝の桑原(22歳)、同学年で社会人1年目の戸田忠男(滋賀・22歳)、1学年下で現役学生チャンピオンの惠土孝吉(愛知・22歳)、そして静岡の小山正司(25歳)である。
30代が32名、40代が20名出場し、平均年齢は前年の38歳から37歳にわずかに下がっただけ。30代でも後半すなわち戦前、戦中に剣道を始めていた世代が多かった。初出場が25名いたと記録されているが、多くはその年代の初出場者だったようだ。
そんな大会の頂点に立ったのは40代の剣士だった。大会史上初の40代覇者となったのは伊保清次(東京・41歳)である。上段の遣い手としては第5回大会の森田信尊以来、2人目の優勝者となった。
1回戦 伊保 ココ─コ 保持泰(愛媛)
2回戦 伊保 メ─ 松本明正(北海道)
3回戦 伊保 メド─ 清水治夫(神奈川)
4回戦 伊保 メメ─コ 大浦芳彦(福岡)
準決勝 伊保 ココ─ 惠土孝吉(愛知)
決 勝 伊保 ココ─ド 小沼宏至(東京)
伊保は身長183cmの巨漢。大正9年生まれだが、この年代で180cm以上というのは飛び抜けて大きい。
1回戦で対戦した保持泰(愛媛)は出場選手中最年長の46歳、愛媛師範学校卒の公務員だった。身長167cmの保持は右上段で伊保の左上段に挑み、互いに小手を取り合って一本一本としたが、伊保がさらに小手を決めた。2回戦の松本明正(北海道)は旭川師範学校卒で教員の37歳、身長171cmでこの日の対戦相手では最も長身だったが、伊保がメンを決め一本勝ちを収める。1、2回戦は調子が上がらず苦戦したと伊保自身が振り返っている。3回戦の清水治夫(神奈川)は前橋工業学校卒、36歳の警察官で身長は170cmだった。調子が上がってきた伊保が面と胴を奪って勝利を収める。
準々決勝は上段同士の対決となった。大浦芳彦(福岡・36歳)は第1回大会に出場した後、4年間は出場がなく、第6回大会からこの年まで4年連続出場、伊保は第2回大会が初出場で第6回大会から4年連続出場と、同じような出場歴だった。伊保が第6回大会で4位に入賞したのに対し、大浦は第7回大会で2位、第8回大会で3位と実績で上回っている。伊保が面を先取するも大浦が小手を返して延長へ。大浦が面を打ったところを面返し面で伊保が仕留めた。大会審判長の三角卯三郎(範士八段)は「読売新聞」紙上で、「身長差が大きくひびいた」と評している。大浦の身長は160cmで、伊保とは20cm以上の差があった。
準決勝では対戦した惠土孝吉(愛知)はさらに小さい157cmだった。中京大学4年生で、この年の全日本学生選手権で2度目の優勝を果たしている。動きの素早い惠土から伊保が小手を二本奪って勝利を収めた。後年、惠土はこう振り返っている。
「少なくても20センチくらい届かない。一歩踏み込んで横面を打つのに、ぜんぜん届かないんですよ。小手を二本取られましたが、上からバサッとくる小手が一本と、あとフェイント気味にくる小手でした。いろいろな攻め方をしてくるんです、伊保先生は」(『夢剣士自伝』)
決勝は小沼宏至(34歳)との対戦となった。東京所属の選手同士の決勝は初めてである。この年全国警察剣道大会A組で優勝した警視庁の3将を務め、連覇を果たした翌年は大将を務めた主力選手である。後に警視庁主席師範を務め範士九段となる名剣士だが、意外なことに全日本選手権はこの年が生涯唯一の出場だった。
「だんだん調子が出て、決勝は思いのほか楽だった。日ごろの練習で小沼君をよく知っていたせいもあるだろう。むしろ動きの速い惠土君との準決勝に気を配った」
「相手は私の得意技が面だと知っていたので、意識して小手を狙った」
と試合後に伊保は語っている。この年の伊保は全国教職員、全日本東西対抗、国体、全日本選手権東京予選に出場して負け知らず、本大会で優勝して42連勝という数字を残した。
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伊保(背中)対小沼の決勝
全日本選手権で勝つために単身上京
伊保は福岡県生まれ。小学校3年のとき近所に住吉少年剣道場ができ、友達がみんな通い始めて遊び相手がいなくなってしまったため、2、3ヶ月後に入門した。最初は剣道をあまり好きになれず、熱心ではなかったという。高学年になり選手になっても大会で優勝することもなかったが、身体が大きかったので神社の奉納相撲大会では優勝したことがあるそうだ。
福岡師範学校に入学後は東京高等師範学校OBである占部誠の指導を受けた。3年生になって占部の勧めで上段を取るようになると、試合で連戦連勝を収める。当時はまだ上段をとる選手が少なく、対処法が知られていなかった。4〜5年生のときは各大会で暴れまわり、当時は全日本中等学校剣道大会という名称の大会がいくつもあったが、その中でも大規模な東京、京都、大阪での全日本大会で優勝を果たしている。
東京高等師範学校に進むと、指導者になるためには中段を磨くようにと指導され、稽古も試合も中段で行った。中学時代からのライバル谷口安則や秋田師範学校出身の奥山京助とともに東京学生連合会の大会や全日本大学・高専・専門学校大会など各大会で優勝し、東京高師黄金時代を築く。明治神宮大会では大学高専の部で個人優勝している。
その後予備学生制度により海軍に入り海軍兵学校の教官となった。終戦後は剣道復活前から福岡の朝倉農蚕学校、その後、鳥取の倉吉東高校で教壇に立つ。なぜ鳥取に行ったかは聞き逃したが、バスケットボールの教員チームで活躍したり、水泳のコーチも務めていたという。昭和29年の全日本選手権初出場は鳥取所属で、準々決勝で中尾巌(兵庫)に敗れている。34歳だった。
それをきっかけに「やはり選手権で優勝するには、東京に出て修業をしなくては」と考え、翌昭和30年に家族を置いて上京し都立千歳高校に移った。初出場の第2回大会で、住吉少年剣道場の後輩である小西雄一郎が優勝したことも刺激になったのだろうか。東京高師の先輩である中野八十二が上京を勧め、職場の世話もしてくれたと後年振り返っていた。千歳高校は定時制で体育教師だったが剣道部の指導はしていない。昼間の時間に警視庁や野間道場などに通って稽古をするために夜間の高校を選んだのである。
全日本選手権よりも先に結果を残したのが、全日本東西対抗大会の舞台だった。昭和32年の第4回大会で10人抜きを果たす。初めて抜き勝負が採用された第3回大会では榊原正(第1回全日本選手権大会優勝)が10人抜き、後に「東西対抗の鬼」と呼ばれた中倉清が9人抜きを達成していたが、彼らに肩を並べる活躍だった。
選手層の厚い東京から初めて、自身2回目の全日本選手権出場を果たしたのは翌33年の第6回大会で、3回戦では前年優勝の森田信尊(長崎)を、準々決勝では大阪府警の浦本徹誠を破ったが、準決勝で中村太郎(神奈川・第3回、第7回全日本選手権大会優勝)に敗れている。
昭和34年の第6回全日本東西対抗では8人抜きと再び目覚ましい働きを見せたが、この年の第7回全日本選手権は2回戦で堀内肖吉(栃木)に屈した。翌年の第8回大会は3回戦で自衛官の蓮井肇(兵庫)に敗れている。
昭和36年の全日本東西対抗は対勝負だったが、竹長正夫(愛媛)に勝利、同時に行われた特別選抜個人試合(当時、対勝負の場合に教士七段の出場者により行われたトーナメント)で優勝を果たしている。そして迎えた第9回全日本選手権は「41歳。これ以上年とったらだめと思っていた」と後年振り返っている。
「剣道はスポーツだよ」
全日本選手権で念願の優勝を果たした当時、伊保はすでに東京高師の先輩である大野操一郎部長に誘われ、国士舘大学の師範の一人となっていた。優勝後は警察大学校の教授に就任することになり、千歳高校を辞め、母校の東京教育大学(当時)などの指導にも携わった。後に国士舘を離れ、愛知の中京大学武道主任師範となる。
福岡師範学校時代は小説家志望だったという伊保は筆が立った。昭和46年に著した単行本『剣道』(講談社スポーツシリーズ)は多くの人が手にしたのではないだろうか。少年剣道ブームがピークを迎えようとしていた時期であるし、写真が豊富で分かりやすかった。昭和51年に「剣道日本」が創刊されると、当初から試合観戦記や技術解説に筆を揮った。私が入社して以降も連載や単発の記事をいくつもお願いしたが、伊保の記事はライターや編集記者ではなく、すべて自ら執筆したものだ。
八段になってからも昭和54年の日本武道館開館15周年記念範士八段選抜優勝大会で優勝している。昭和60年に私が剣道日本編集部に入った当初、伊保は剣道界の真ん中にいる人なのだと認識していた。しかし先輩のライターから「伊保先生に批判的な人もいる」と聞かされた。最初はその理由が分からなかったが、徐々に理解するようになった。
私が編集長になった平成5年に、インタビューという形で取材をお願いした。「剣道は武道か、スポーツか?」という質問に伊保は「剣道はスポーツだよ」と即答した。スポーツだと断言した高段者は他に知らない。さらにこう続けた。「そして最上のものでもないです。もちろん素晴らしいものをたくさん持っているけれど、それを大上段に振りかぶって、剣道は武道だ、立派なものだ、といってもそれじゃ世間では通用しないでしょう」。
この言葉に伊保が剣道界の主流になれなかった理由が集約されていると思う。いや、それが良くなかったというのではなく、私はその考え方がとても好きだった。伊保のようなスポーツ的なアプローチによる、変幻自在で自由度の高い剣道も一つの個性として認める幅の広さがあった方が、剣道への世間の注目度はもっと高くあり続けたと思っている。つまり今は伊保が「それじゃ世間では通用しない」と言った通りになりつつある。長くなってしまうので、伊保の人となりについてはいずれ稿を改めたい。
平成5年当時は中京大も退職して、居住する神奈川県厚木市の剣友会で幅広い層の剣士と剣を交えていた。「剣道が楽しいんです」とそのインタビューの中で語っていた。剣道を心から楽しんだ人だと思う。平成11年逝去。
谷口安則との同級生対決は実現せず
惠土と並んで3位となったのは谷口安則(福岡・40歳)だった。東京高師時代の伊保の盟友である。小沼との準決勝は一本一本となった後小手を奪われて敗退した。大会審判長であり福岡県の先輩である三角卯三郎が苦言を呈している。
「一本一本ののち谷口は軽いコテを打って『コテだ』と横向きになるところを打たれた。このクセは改めねばいけない。調子も悪くなかったし、伊保と勝負させたかった…」。
この年代の剣道ではよく見かけた光景ではある。谷口は第1回、第6回、第9回、第10回大会に出場し、このときのベスト4が最高成績だった。後年は範士九段となり、ある年の全日本剣道演武大会では「これぞ九段」という立合を見せてくれた。目指した剣道は伊保とはまったく違っており、剣道界の王道を歩んだ剣士といえるが、取材時の対応も含め伊保とは別の意味で私が尊敬する剣士の一人だ。
初出場の戸田忠男(滋賀・22歳)はベスト8に食い込んだ。小沼には敗れたが2回戦で浦本徹誠(大阪・36歳)を破ったのが自信となり、翌年の初優勝につながった、と後年語っている。伊保と並んで優勝候補に挙げられていた浦本は、前年の全日本選手権では桑原に敗れたものの2位入賞、全国警察大会A組では大阪府警の副将として昭和32年、33年と連覇、35年には大将を務め優勝、この36年も大将を務め警視庁には敗れたものの2位。脂が乗っていたが、勝運に恵まれなかった。
そのほかベスト8には前述の大浦、山根昇(岡山・37歳)、そして川添恵実(高知・37歳)が駒を進めた。川添は第19回、23回大会で優勝する川添哲夫の父である。山根は谷口に、川添は惠土に敗れた。
前述のように20代の選手は4人で全員が25歳以下、すなわち戦後の復活後に剣道を始めた世代であるが、惠土がベスト4、戸田がベスト8、桑原哲明が小沼に敗れてベスト16、小山正司は川添に敗れてベスト16と、全員が上位に進んでいる。翌年はこの結果に触発されて予選に挑んだ選手も多かったのだろう、20代の出場選手が一気に13名に増える。戦前・戦中派から戦後派への世代交代が、一歩だけだが確実に進んだ年だったとも言える。
桑原が優勝した前年の第8回大会から昭和43年の第16回大会まで9大会をピックアップしてみると、優勝者は20代が5名、40代が4名で、30代はゼロである。戦前・戦中派は40代となり、20代の戦後派と覇を競っていたという実態がはっきりと現れている。そして昭和44年以降は現在に至るまで40代の優勝者は現れていない。
戸田に3回戦で敗れた水野忠(宮城・34歳)は二刀で出場した。前年の谷口潔(鳥取)に続き大会史上2人目と思われる。水野は旧制中学時代から二刀を遣い、戦後は乳井義博(燿)の指導を受けた。
新聞記事によれば「会場は昔をしのぶお年寄りから小さな小中学生ファンで超満員に埋まった」という。昭和31年に竣工した先代の東京体育館は、固定席に6000人、仮設席に4000人を収容した。1万人近い観客が詰めかけていたのだろうか。