第15回全日本剣道選手権大会(1967)、41歳の堀田國弘が上段からの豪剣で20代の包囲網を打ち破る

全日本選手権物語

 第15回全日本剣道選手権大会は昭和42年(1967)12月3日に開催され、41歳の堀田國弘(兵庫)が頂点に立った。当時、兵庫県警察学校教官を務めていた。

 決勝の相手は前年に初優勝を果たした23歳の千葉仁(東京・警視庁)。18歳差、上段同士の対戦となった。読売新聞は「千葉の二連勝は一瞬の油断でくずれさった」と書いている。

「試合時間十分のうち九分経過したあと、堀田が面をねらって踏み込むと、わずかな間げきでこれをかわし、あざやかに面を返して先行した。ここで勝ちを急ぎ、小手を襲ったのが悪く、堀田に逆に抜かれて小手に返され1─1、延長となった。
このあと、千葉の思い切りのいい小手が決まったかに見え、千葉自身も残心から引き上げかけたが堀田はそのスキにつけ込んで面を取り、初優勝を決めた。千葉のこの小手は『ツバだった』と主審が判定したが……(以下略)」(「読売新聞」昭和42年12月4日付)

 千葉はあと一歩のところで史上初の連覇を逃した。優勝の翌年に決勝まで進んで敗れたのは、中村太郎(第4回大会)、戸田忠男(第11回大会)に続き3人目である。3人ともがその後2回目の優勝(千葉は3回)を果たしているが、連覇はできなかった。

 なお、この大会にも出場していた惠土孝吉は『夢剣士自伝』の中でこう述べている。
「僕も見ていましたが千葉さんが勝っていた。堀田さんの小手を少なくとも二本ぐらいは打っていました。ただ、審判の旗が上がらなかった。(中略)あのころは、全日本選手権で2連覇するような偉業はよほどのことでないと許さないというムードが剣道界の上層部にあったんだと思います」

警察に入った当時は右上段で戦っていた

 堀田は大正15年、鹿児島県生まれ。6、7歳の頃から青年団の集会所で早朝に行われる示現流の稽古に通い、小学校3年生から竹下義章の指導で本格的に剣道を始めた。竹下は昭和15年の天覧試合(紀元二千六百年奉祝天覧武道大会)府県選士の部で準決勝まで進んだ人物である。

 堀田は大阪の「大日工業」を卒業したと複数の資料にあるが、学校の正式名称も現在のどの学校の前身であるかも不明だ(大阪の学校らしい)。17歳で海軍に志願し、潜水艦に乗っていた。海軍でも剣道の稽古は続けられていた。

 昭和20年に復員し、鹿屋市役所に勤務、熊本の財務局を経て、昭和28年に兵庫県の尼崎市警に入る。鹿児島から先に奉職した者がいて、「鹿児島には堀田という暴れ者がいる」と話したことでスカウトされたという。すでに結婚して子どももいた。市警すなわち自治体警察については第2回大会2位の中尾巌、第11回大会優勝の矢野太郎の記事で説明している。中尾と矢野は神戸市警だったが、おそらく昭和30年からは兵庫県警となり、堀田の同僚となる。

 全日本選手権は第5回大会に初出場、この第15回大会は6回目の出場で、年齢のこともあり最後のつもりだったと本人は語っている。過去5回は第10回大会で3回戦(ベスト16)に進んだのが最高で、残る4回はすべて2回戦で敗退していた。

 その間、他の試合では見事な戦績を残している。昭和40年には全国警察選手権大会(個人戦)で優勝、その年は全国警察大会(団体戦)でもA組(現在の一部)で大将を務め優勝、団体戦ではそれまでに4度も2位になっている。国体では昭和31年と38年に優勝を果たした。全国警察大会の最後の優勝以外は3歳ほど年上の矢野も一緒に戦っている。この昭和42年は全日本東西対抗大会の特別選抜個人試合で優勝を果たした(当時は対勝負の場合、出場者の中から選抜で個人戦を行っていた)。

 堀田は翌年の第16回全日本選手権ではベスト8、その翌年も出場を続ける。さらに5年経って第22回大会、23回大会に48歳、49歳で出場するという執念を見せ、10回出場を達成した。

 尼崎市警に入った27歳当時は右上段に構えていたという。剣道が今より自由だったことを感じさせるエピソードだが、当時としても珍しく、最初は面白いほど勝てたもののやがて研究されて勝てなくなった。それで左上段に変えたが、勝てるようになるまで4、5年はかかったという。

 そして全日本選手権優勝以降は試合では上段を封印した。
「私の上段に対する大先生からの批判の声も少なからずあったからです。(中略)竹刀だからできるのであって、真剣だったらできるはずがない、と」
「しかしですね、(中略)真剣を使ってでも片手で斬る自信が私にはありました。一般の人たちの両手で打つ力と私の片手で打つ力とどちらが強いか、という心の叫びもあった」(「剣道日本」1997年11月号)

 後年は兵庫県警の師範を務め、明治村剣道大会では2位(昭和61年)、3位2回などの好戦績を残した。

20代の選手が圧倒的多数を占める中で

 この大会プログラムが手元にあるので、全選手の年齢が分かる。出場選手56名中20代が42名と圧倒的多数を占めた。30代は6名、40代は8名である。初出場は過半数の33名。30代のうち31歳の有満政明(鹿児島)は鹿児島大学を卒業し県警に入ってから剣道を始めたので完全な戦後派、32歳の内田州康(栃木)も戦後派だが、残る3名は37歳以上で戦前戦中に剣道を始めていた可能性もわずかにあるだろう。最高齢は松原幸好(福岡)の45歳だった。

 堀田の対戦相手もすべて20代だった。

1回戦 堀田 コメ─ 谷口雄三郎(復位)
2回戦 堀田 メ─ 本屋敷博(千葉)
3回戦 堀田 メコ─ 工藤修治(青森)
4回戦 堀田 メ─ 田中信行(京都)
準決勝 堀田 メメ─ 白藤一郎(大阪)
決 勝 堀田 コメ─ 千葉仁(東京)

 1回戦から順に谷口雄三郎25歳、本屋敷博24歳、工藤修治26歳、田中信行29歳、白藤一郎22歳、千葉仁は前述の通り23歳。白藤以外は警察官である。

 ベスト8も堀田以外全員が20代だった。4年前の第11回大会でもベスト8のうち7人が20代で、唯一の40代であった兵庫県警の矢野太郎が優勝しており、その再現となった。

 3位の白藤一郎と嶽下武紀(熊本)はともに、この年春に大学を卒業した22歳。白藤は関西大学3年生だった昭和40年に全日本学生選手権で優勝した実力者で、同年の全日本選手権に初出場を果たしベスト8まで勝ち進んだ。15回大会当時の職業は「商業」となっている。これが最後の出場となった。この翌年、指導者を目指して東海大学武道学科に改めて入学し井上正孝らの指導を受けて、関西大学教授、剣道部監督などを務めた。平成23年逝去。

 嶽下武紀は国士舘大学を卒業した警察官で、この年が初出場、この翌年も本大会に出場(2回戦敗退)、同年の全国警察大会2部優勝メンバーとなっているが、全日本選手権出場はその第16回が最後。令和8年時点では熊本市剣道連盟会長職にある。

 準々決勝敗退の4人は田中信行(京都)29歳、古沢里司(大分)25歳、玉置昭夫(奈良。プログラムでは「照夫」となっているが全剣連三十年史の記述に従う)23歳、林邦夫(岐阜)23歳。

 古沢は新潟商業高校時代にインターハイ個人優勝、東京教育大学(現在の筑波大学)時代は昭和40年に白藤と決勝を戦った実力者。おそらくは昭和41年の大分国体のための強化で大分県の教員となっており、その年は国体教員の部で優勝している。本大会出場はこの年が唯一だった。

 林邦夫は中京大学在学中で、主将を務め全日本学生優勝大会ではベスト8、全日本学生選手権でも前年にベスト8に進んだ。全日本選手権はその後第18回大会にも出場した(1回戦敗退)。後年は中京大学の指導者を長く務め多くの剣士を育てた。範士八段。

 田中信行は東山高校卒で京都府警所属、この年が初出場だった。大日本武徳会本部で修業し京都府警師範も務めた田中知一範士九段の子である。翌年の第16回大会にも出場した(2回戦敗退)。のち範士八段となる。玉置昭夫は国士舘大学卒の教員。この年が唯一の出場となった。

 過去に2位1回、3位3回という戦績を収めていた惠土孝吉(愛知)が、2年ぶり7回目の出場。この年は脚の肉離れを抱えており充分に踏み込めないため、以前から学んでいた二刀で出場している。1回戦で鈴木実(北海道)、2回戦で野沢治雄(埼玉)を破るが、3回戦で古沢に敗れた。

 同じ3回戦進出者では、初出場の池田健二(東京)が大会前から注目され優勝候補にもあげられていた。福岡商業高校時代にインターハイ個人優勝、玉竜旗大会3連覇、早稲田大学では全日本学生選手権を制した強豪だが、卒業後は西日本相互銀行に就職、その後ゼネラル石油に転職し25歳となったこの年に東京から初出場を果たした。3回戦で林に敗れている。翌年も出場しベスト8、その後地元福岡に戻り如水館の指導者として多くの有名選手を育てている。

 静岡県警の指導者だった井上義彦(のち範士八段)は、39歳で生涯唯一の本大会出場を果たした。3回戦で千葉に敗れている。

 この翌年の第16回大会では45歳の山崎正平(新潟)が優勝、史上最年長にして最後の40代優勝者となる。この2年は戦前戦中派が全日本選手権の舞台で最後の輝きを見せた。

 余談になるが、この大会を報じた昭和42年12月4日の各スポーツ紙の一面には、国際マラソン(現在の福岡国際マラソン)で、デレク・クレイトンが世界で初めて2時間10分を切ったという記事が躍っている。当時私は小学2年生だったが、途中まで佐々木精一郎がクレイトンとトップを並走していたのを、手に汗握りながらテレビで観ていた記憶がある。たぶん生まれて初めてスポーツを見て手に汗を握ったイベントだった。当時全日本剣道選手権は12月第1日曜に開催されることが多かったが、その日はこのマラソンをはじめとして注目度の高いスポーツイベントが多く、新聞などでの扱いが小さくなりがちなことがやがて問題となり、11月3日の開催へと変更される。

2026年3月22日記

※全日本剣道選手権大会について、古い時代を中心にランダムに記録していきます。第33回(1985年)以降は現場で取材した内容も含みますが、それより前については資料と記録、および後年取材した記事をもとに構成しています。事実に誤りがあればご指摘いただけると幸いです。記事中は敬称を略させていただきました。
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